木戸を閉める。夜回りに出る。「火の用心」拍子木を鳴らす。平助の毎晩は、それだけだ。
もう何十年も、同じことをしている。町のことは、隅々まで知り尽くしているつもりだった。若い頃から木戸番を務め、町内の顔役や商家の主人たちからも、平助の顔と声だけは、誰もが知っている。拍子木の音は、この町の夜そのものだった。
ある晩、いつも通らない裏路地から、物音がした。何かを引きずる、重い音。提灯を提げて、そちらへ向かう。
蔵の裏手。小さな明かり。誰かが座り込んで、何かをしきりに動かしている。
「何をしておられる」
顔を上げたのは、老いた女だった。「探しております」それ以上は、答えない。
翌晩も、同じ場所。
同じ女。今度は、腰を据えて、探し物を手伝おうとした。何十年も前に、この裏路地で亡くした子供を探している、と女は言う。この裏路地の古い出来事を、平助は思い出そうとしたが、何も心当たりがない。
幾晩も、手伝った。
何も、見つからない。
ある晩、平助は気づく。
この裏路地が、この町のどこにも属していない場所であることに。何十年も歩いてきたはずの町の地図の中に、この路地は、どうしても見つけられない。
それ以来、近づかないことにした。それでも、時折、夜回りの途中、ふと自分がその路地の入り口に立っていることに気づく晩がある。そのたびに、木戸の方へ足を向け直す。
跡を継いだ若い木戸番には、町の地図を教えた。この裏路地のことだけは、どうしても教えられなかった。「あすこには、行かんでいい」それだけを言い残して、平助は木戸番の仕事を退いた。
墓は、本所の小さな寺にある。孫が、時折訪れる。線香を上げながら、裏路地のことを、心の中で問いかけてみることがある。返事はない。それでも、墓の前に立つと、なぜか少しだけ、気持ちが落ち着く。
裏路地のことまで伝えるかどうかは、まだ決めていない。祖父の最後の言葉の重さを、孫はまだ、うまく受け止めきれていない。
ただ、いつか自分にも子ができたら、あの路地の前だけは、一緒に通らないようにしようと、密かに決めている。