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佐々木喜善と妖怪

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佐々木喜善は実在の人物であり、以下の生涯・年代は、Wikipedia「佐々木喜善」、いわての文化情報大事典、遠野市観光情報サイト「遠野時間」の記述にもとづく史実として書いている。評価・この台帳との接点についての記述は、編者の私見として分けて書く。

1886年(明治19年)10月、岩手県上閉伊郡土淵村(現・遠野市土淵町)に生まれる。実父・厚楽茂太郎の長男だったが、父の死去にともない母方の佐々木姓を継いだ。上京し、井上円了いのうええんりょうが設立した哲学館(現・東洋大学)に入学するが、文学を志して早稲田大学文学科に転じた(いずれも中退)。この時期、終生の友人となる水野葉舟と出会う。1905年頃から佐々木鏡石(きょうせき)の筆名で小説を書き始め、1907年、短編「長靴」が文芸雑誌『藝苑』に発表され好評を得た。

1908年(明治41年)11月4日、水野の紹介で柳田國男やなぎたくにおと出会う。学者というより役人然とした柳田の物腰に、喜善は面食らったという。柳田も後年「喜善の語りは訛りが強く、聞き取るのに苦労した」と振り返っている。それでも柳田は、喜善が語る遠野地方の伝説・昔話に強く惹かれ、聞き取った内容を1910年『遠野物語』としてまとめた。初版の序文には「この話はすべて遠野の人佐々木鏡石くんより聞きたり」と明記されている。喜善の生家には、後に松本信広・水野葉舟・ネフスキー・折口信夫おりくちしのぶ・桑原武夫・宮本常一といった民俗学者・文学者が数多く訪れた。

『遠野物語』刊行後、喜善は単なる情報提供者にとどまらず、自ら民話・伝承の採録者として活動を続けた。1920年(大正9年)『奥州のザシキワラシの話』、『江刺郡昔話』のほか、和賀・岩手・紫波・胆沢郡の昔話を集録して発表。1926年『東奥異聞』、1927年『老媼夜譚』を刊行し、1931年(昭和6年)の『聴耳草子』は昔話の集大成として「日本のグリム」と称賛された(金田一京助による評とされる)。1933年(昭和8年)、48歳で没した。

紫波との接点 ― 『紫波郡昔話』

史実:喜善は、遠野だけでなく、和賀・岩手・紫波・胆沢という周辺各郡の昔話も採録し、『紫波郡昔話』としてまとめている。紫波町は歴史的な紫波郡の一部にあたる。座敷童子や河童のように広く知られた話でなくても、紫波の郷土の言葉で語られた昔話が、この時期に文字として記録されたことになる。

私の見方:喜善がいなければ『遠野物語』もなく、日本民俗学の始まり自体が今とは違う形になっていたと思う。それでいて、喜善自身は長らく「柳田に語った人」という扱いにとどまりがちだった。実際には、自分自身で紫波・江刺・和賀といった周辺地域の昔話も精力的に集め続けた、独立した採録者だった。この台帳が紫波町を拠点にしている以上、その土地の言葉を実際に記録した喜善の仕事は、もっと知られてよいと思う。

この台帳との接点

座敷童子の記事は柳田國男やなぎたくにお『遠野物語』とともに、喜善の聞き取りを出典としている。紫波郡に伝わるとされるカカベという妖怪も、喜善が採録した紫波郡の昔話と、系譜として近い位置にあると考えられる(カカベ自体の直接の出典はまだ確認できていない)。

1886年

岩手県上閉伊郡土淵村(現・遠野市)に生まれる。

1905年頃

佐々木鏡石の筆名で小説を書き始める。

1908年
柳田國男やなぎたくにおとの出会い

11月4日、水野葉舟の紹介で柳田國男やなぎたくにおと出会う。

1910年
遠野物語

喜善の語りをもとに、柳田國男やなぎたくにお『遠野物語』刊行。

1920年

『奥州のザシキワラシの話』『江刺郡昔話』刊行。紫波郡等の昔話も採録。

1926年

『東奥異聞』刊行。

1927年

『老媼夜譚』刊行。

1931年
代表作

『聴耳草子』刊行。昔話の集大成として「日本のグリム」と評される。

1933年

逝去(48歳)。