ESSAY

妖怪とは何か、という話

この台帳の姿勢

歴史は、事実と解釈のあいだの緊張でできている。同じ出来事でも、誰が語るかによって違う姿になる。だからこそ、いい加減に書いたことが、そのまま歴史として固まっていくことだけは許したくない。確認できていないことは確認できていないと書く。諸説あるものは、諸説あると書く。この台帳が目指しているのは、面白い物語をでっち上げることではなく、正しい伝承をできるだけそのまま伝えることだと思っている。

台帳を作り始めてから、何度も同じ問いに戻ってきた。妖怪とは何か。これがはっきりしない。

妖怪と幽霊の違い——柳田國男やなぎたくにおの整理

民俗学者の柳田國男やなぎたくにおは、妖怪と幽霊を区別している。幽霊は特定の人につく。夜中でも待ち構えていれば出るし、出る場所を選ばない。対して妖怪は、特定の場所につく。誰であろうと、その場所を通れば遭遇する。橋の下、峠、辻、川の淵。妖怪は場所の現象であって、人の現象ではない。この整理を最初に読んだとき、なるほどと思った。この台帳で「出現条件」を場所と時間で書いてきたのは、意識していなかったけれど、この区別に沿っていたんだと思う。

正直に言うと、幽霊は、あまり好きではない。怪談というコンテンツには、いつも関心がある。ただ、幽霊という存在そのものは、基本的に嫌いだ。理由は、陰湿だからだと思う。未練や恨みを晴らすために、人を恐怖に陥れる。それは、ある種の暴力だと思う。人間でも、そういうやり方で人を追い詰めるタイプには、近づきたくない。

妖怪は、その点で痛快だと思う。恨みを晴らすためではなく、ただ現象を起こし、人にいたずらを仕掛け、そうやって自分の存在を知らしめる。その振る舞いの中に、人間へのちょっとした気づきが、いくつも紛れ込んでいる。同じ「怖いもの」でも、この違いだけで、妖怪の方が、ずっと付き合いやすい相手だと思っている。

境界に棲むもの——宮田登みやたのぼるの視点

宮田登みやたのぼるはさらに、妖怪が現れる場所を「境界」として説明している。村と山の境、昼と夜の境、この世とあの世の境。橋も峠も辻も、すべて何かと何かの境目にある。妖怪は、境界そのものに棲んでいる存在だ、という見方は、今回47都道府県を見て回ってからだと、実感として理解できる。峠に出る妖怪、川に出る妖怪、家の境(座敷と土間どまの境、内と外の境)に出る妖怪。境界という軸で並べ直すと、この台帳もまた違う地図に見えてくる。

妖怪の四段階の歴史——鬼から図鑑まで

妖怪の歴史を大きく分けると、古代の「鬼」、中世の絵巻に描かれる「付喪神つくもがみ」や「百鬼夜行」、江戸期の妖怪ブーム、そして近代以降の妖怪学、という四つの段階があると思う。古代の鬼は、目に見えない禍そのものだった。それが中世になると、絵巻の中で輪郭を持つようになる。土蜘蛛や酒呑童子のように、朝廷に従わなかった者たちが鬼として物語化されたのも、この時期に重なる。江戸期に入ると、鳥山石燕とりやませきえんの画集や見世物興行を通じて、妖怪はキャラクターとして固定されていく。輪郭を持ち、名前を持ち、図鑑に載る存在になった。この台帳がやろうとしていることも、根っこはこの江戸期の営みと同じだと思う。

説明するか、読み直すか——井上円了いのうええんりょうと柳田・折口

近代に入ると、井上円了いのうええんりょうが「妖怪学」という学問領域を立てて、妖怪を迷信として合理的に説明しようとした。一方で柳田國男やなぎたくにおや折口信夫おりくちしのぶは、妖怪を切り捨てるのではなく、そこに残る人々の生活の記憶として読み直そうとした。この二つの態度は、今でも妖怪について書くときに、無意識に選ばされている気がする。「これは自然現象の言い換えだ」と説明したくなる自分と、「そう説明してしまったら伝承が持っていた質感が消える」と思う自分が、いつも両方いる。この台帳では、学術的解釈として両方を併記するようにしている。決着をつけないことも、ひとつの誠実さだと思う。

蓄積されたデータベースの中で

現代における妖怪研究の蓄積は、想像以上に大きい。国際日本文化研究センターの「怪異・妖怪伝承データベース」には、2023年時点で約3万5000件の事例が収録されている。呼称・地域・文献・要約が検索できる規模のデータベースが、すでに存在している。この台帳の593体という数字は、その蓄積からすればごく小さな入り口にすぎない。それでも、名前だけの台帳登録と、事実確認済みの詳細記事を分けて、信頼度を朱印で明示する、というやり方は、この個人的な調べものなりの誠実さのつもりでやっている。

妖怪について書くときに一番怖いのは、確認していないことを、確認したかのように書いてしまうことだと思う。伝承として語られていることと、自分がそれをどう感じるかは、いつも分けて書くようにしている。この台帳のこれから先も、そのルールだけは変えないつもりでいる。

小松和彦こまつかずひこの視点——分類軸を作るために

ここから先は、この台帳を「妖怪図鑑」と「妖怪の分類」という二つの軸に分けるにあたって、あらためて調べ直した小松和彦こまつかずひこの考え方について書いておきたい。

妖怪は「創造され続ける」存在

小松和彦こまつかずひこは、国際日本文化研究センターの元所長で、文化人類学・民俗学の立場から妖怪を研究してきた人。柳田國男やなぎたくにおは妖怪を「前代の神が零落れいらくしたもの」、つまり科学が進歩すれば消えていく俗信ぞくしんの一種として捉えていた。小松和彦こまつかずひこはこれに真っ向から異を唱えている。妖怪は神と並んで最初から存在していたのであり、人間から必要とされる存在として、これから50年後、100年後も創造され続けるだろう、と。妖怪とは、人々のコントロールできない思いや矛盾を映す鏡であり、喜怒哀楽を持つ人間の分身なのだ、という言い方をしている。これは、いち民俗誌の趣味として妖怪を集めている自分にとっても、けっこう背筋が伸びる言葉だった。

妖怪現象・妖怪存在・妖怪表象という三段階

小松和彦こまつかずひこは、妖怪という概念を「妖怪現象」「妖怪存在」「妖怪表象」の三段階に分けて説明している。まず説明のつかない出来事(妖怪現象)が起き、その原因として何らかの存在(妖怪存在)が想定され、それが絵巻物などの形を与えられて(妖怪表象)、ようやく人々の間で共有できる「妖怪」になる。この台帳でいえば、伝承の中身(出現条件・被害恩恵)が現象と存在の部分、鳥山石燕とりやませきえんの絵などに基づく外見の記述が表象の部分にあたる。今回、都道府県以外の分類軸を作るにあたっても、この三段階のうち、特に「何が原因として想定されたか」という部分を手がかりにした。

限定された富げんていされたとみのイメージ——憑き物筋つきものすじの伝承

もうひとつ、今回の分類で特に参考にしたのが、小松和彦こまつかずひこの『憑霊信仰論ひょうれいしんこうろん』にある議論。牛蒡種ごぼうだねや犬神のような憑き物筋つきものすじの伝承について、小松和彦こまつかずひこはアメリカの人類学者ジョージ・M・フォスターの「限定された富げんていされたとみのイメージ」という概念を援用している。貨幣経済が浸透していく近世社会では、富は無限に増えるものではなく、誰かが得をすれば誰かが損をする「限定されたパイ」だと感じられるようになる。この不安と妬みが、狐や犬神を使って隣家から富を奪っているという憑き物筋つきものすじの噂を生んだ、という説明の仕方。この視点を知ってから読み返すと、牛蒡種ごぼうだねや犬神の記事に書いた「特定の家筋いえすじへの差別につながった」という一文が、単なる後日談ではなく、伝承が生まれた理由そのものだったんだと腑に落ちた。

年表について

最後に、なぜ日本でこれほど妖怪が生まれ、育ってきたのかを、外からの影響と国内での熟成の両方を追いながら年表にしてみた。この台帳が扱う妖怪はすべて日本国内の伝承にもとづくものだけれど、その成り立ちには、大陸から渡ってきた考え方が何度も混ざり込んでいる。もっと手前、文字も名前もなかった縄文・弥生時代まで遡った仮説は、起源クロニクルという別ページにまとめた。

縄文〜古代
〜8世紀
自然物・自然現象への畏怖(アニミズム)が土台にある。「もの」という大和言葉が、見えない気配全般を指していた。中国大陸からは陰陽五行思想や道教的な鬼神きじん観が、仏教とともにはインドに由来する羅刹・餓鬼などの概念が伝わり、在来の精霊観念と混ざり合っていく。『古事記』『日本書紀』(8世紀)には、八岐大蛇や両面宿儺のように、まつろわぬ者を異形として描く記述がすでにある。
平安時代
9〜12世紀
陰陽道おんみょうどうが国家の制度に組み込まれ、「物の怪もののけ」という言葉が定着する。『今昔物語集こんじゃくものがたりしゅう』などの説話集に鬼・天狗・土蜘蛛が登場。宮中を舞台にした鵺や玉藻前の原型となる怪異譚も、この時期の都の不安(政争・疫病えきびょう・天変地異)を背景に形成されたと考えられている。
中世
13〜16世紀
『百鬼夜行絵巻』『付喪神つくもがみ絵巻』など、妖怪に「姿」を与える絵巻文化が発展する。能楽の成立により、酒呑童子・土蜘蛛・紅葉狩・山姥などが演目として姿を固定化されていく。禅宗・修験道しゅげんどうの広がりとともに、天狗の姿も体系立てられていった。
江戸時代
17〜19世紀
出版文化の発展により、妖怪は大衆娯楽の題材になる。鳥山石燕とりやませきえんが『画図百鬼夜行がずひゃっきやぎょう』(1776年)を皮切りに一連の妖怪画集を刊行し、多くの妖怪に「決定版」となる姿を与えた。中国の本草学ほんぞうがく・博物誌(『和漢三才図会わかんさんさいずえ』など)の影響を受けて、雷獣や黒眚のような動物型の妖怪も体系的に記録されるようになる。見世物興行やかるた、双六の題材にもなり、妖怪は完全に娯楽コンテンツ化した。
明治時代
19世紀末〜20世紀初頭
西洋近代科学の流入により、妖怪は「迷信」として否定の対象になる。井上円了いのうええんりょうは「妖怪学」を提唱し、西洋の心理学・生理学の枠組みを使って怪異現象を合理的に説明しようとした。皮肉なことに、これもまた西洋からの影響のひとつだったと思う。一方で柳田國男やなぎたくにおは、消えゆく妖怪伝承を貴重な民俗資料として記録・保存する道を選んだ。
大正〜昭和前期
1910年代〜1945年
柳田國男やなぎたくにお・折口信夫おりくちしのぶらによる民俗学が確立し、妖怪は学問の対象として位置づけ直されていく。『妖怪談義』(1956年)は、この時期までの調査の集大成として位置づけられる。
戦後〜高度成長期
1950〜1980年代
水木しげるが自身の従軍体験や、各地で聞き取った伝承をもとに『ゲゲゲの鬼太郎』を描き、忘れられかけていた郷土の妖怪たちを、テレビアニメを通じて全国区のキャラクターに変えていく。この台帳に載せている一反木綿・砂かけ婆・ぬらりひょんも、この時期に「地方の民話」から「日本中が知るキャラクター」へと立場を変えている。
平成〜令和
1990年代〜現在
小松和彦こまつかずひこらによって妖怪研究が人文学の一分野として再評価され、国際日本文化研究センターの「怪異・妖怪伝承データベース」(3万5000件超)のような学術的な集積が進む。一方でゲームやアニメを通じて、妖怪は海外にも輸出されるようになった。世界からの影響を受けて形成されてきた日本の妖怪が、今度は世界に向けて発信される側に回っている、というのが今の面白いところだと思う。