柳田國男は実在の人物であり、以下の生涯・年代・著作名は、新潮社・国立国会図書館「近代日本人の肖像」、Wikipedia「柳田國男」「遠野物語」等の記述にもとづく史実として書いている。その学説の評価・この台帳との接点についての記述は、編者の私見として分けて書く。
1875年(明治8年)、兵庫県生まれ。東京帝国大学法科大学を卒業後、農商務省に入り、法制局参事官、貴族院書記官長などを歴任したエリート官僚だった。1908年、宮崎県椎葉村で猪狩りと焼畑農業が今も行われていることに驚き、日本各地に残る伝統的な生業・伝承への関心を強める。同年、岩手県遠野出身の青年・佐々木喜善から、故郷に伝わる神や妖怪、家々の伝承を聞き取り、119話にまとめて1910年(明治43年)に『遠野物語』として発表した。座敷童子・河童・天狗・山人・マヨヒガなど、この台帳でも扱う妖怪の多くが、ここに記録されている。
1913年、雑誌『郷土研究』を創刊。1935年には民間伝承の会(後の日本民俗学会)を創始し、日本民俗学という学問分野そのものを確立した。1951年、文化勲章受章。1962年没、87歳。著作は『定本柳田国男集』全36巻に収められている。
史実:柳田は、妖怪を「前代の神が零落したもの」として捉えた。かつて人々に祀られ、信仰の対象だった神が、時代を経て祀り手を失い、力を弱め、恐れられるだけの妖怪へと零落していく、という考え方である。妖怪は場所につき、幽霊は人につく、という有名な整理も柳田によるもので、この台帳の「出現条件」欄が場所と時間を軸にしているのも、意識しないままこの区別に沿っていた。
私の見方:エリート官僚だった柳田が、椎葉村での驚きをきっかけに、日本各地に残る「近代化されなかったもの」への関心を深めていった、という経緯そのものが面白いと思う。佐々木喜善という一人の語り手との出会いがなければ、遠野物語も、日本民俗学という学問自体も、今の形にはなっていなかったかもしれない。個人的な出会いが学問の起点になる、という順番に、いつも励まされる。
史実:柳田は『一目小僧その他』で、一つ目の存在について独自の説を立てている。製鉄の炉の火を見続けた職人は片目を病む。その職業病の記憶が、片目の神という姿に変わって残ったのではないか、という見方である。柳田はこれを「目一つ五郎」と呼び、全国に分布する片目の神の信仰として整理した。
その実例として挙げられるのが、神奈川県鎌倉市坂ノ下の御霊神社に祀られる鎌倉権五郎景政である。後三年の役で右目を矢に射抜かれたという平安後期の武将で、その逸話から眼病平癒の神として信仰を集めている。奥羽地方には、景政が戦場からの帰途に霊泉で目の傷を洗ったという「片目清水」の伝説が各地に残る。実在の武将の伝説と、もともとあった片目の神の信仰が結びついた例として、柳田はこれを論じた。
私の見方:ここで面白いのは、権五郎が妖怪にはならなかったことだと思う。片目という同じ特徴を持ちながら、一つ目小僧は妖怪になり、権五郎は神になった。何がその分かれ目だったのか。祀られ続けたかどうか、という一点なのかもしれない。神社が残り、祭りが続いている限り、それは神のままでいられる。祀り手を失ったものが妖怪に落ちていく、という柳田の零落論を、逆から見ているような気がする。
座敷童子・河童・天狗など、この台帳の図鑑記事の多くが『遠野物語』を出典の一つとしている。座敷童子の記事はその代表例。「神の零落」論には、小松和彦が異を唱えており、その対比は妖怪の分類ページでも扱っている。
兵庫県に生まれる。
東京帝国大学卒業、農商務省に入る。
宮崎県椎葉村を訪問。同年、佐々木喜善と出会う。
『遠野物語』刊行。日本民俗学の出発点となる。
雑誌『郷土研究』創刊。
民間伝承の会(後の日本民俗学会)創始。
『妖怪談義』刊行。
逝去(87歳)。