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なぜ古都に妖怪が少ないのか

この記事について

鎌倉の妖怪を調べようとして、ほとんど見つからなかった。その空振りを、そのまま書いている。数字の部分はこの台帳の集計にもとづく事実、理由の部分は編者の仮説として、分けて書く。

鎌倉の妖怪を台帳に追加しようと思って、調べ始めた。日本で最初に武家政権が置かれた土地である。合戦があり、処刑場があり、山ひとつ分の墓がある。妖怪の一つや二つ、いくらでも出てくるだろうと踏んでいた。

出てこなかった。

数字で見ると、はっきり少ない

この台帳に登録している妖怪の数を、都道府県ごとに数えてみた。全国の平均は11体である。最も多いのは京都府の31体。次いで新潟県25体、東京都24体、長野県23体と続く。

神奈川県は9体だった。平均を下回っている。しかも、そのうち鎌倉に紐づくものは、ほぼない。

京都と比べると、差は三倍以上になる。京都も鎌倉も、日本の古い都である。どちらも権力の中心地で、寺社が密集し、多くの人が死んだ土地でもある。それなのに、片方には妖怪が溢れ、片方にはほとんどいない。

心霊スポットは、たくさんある

調べていて気づいたのは、鎌倉に「何もない」わけではないということだった。検索すれば、心霊スポットの記事はいくらでも出てくる。小坪隧道をはじめとするトンネル群、まんだら堂やぐら群、腹切りやぐら。中世の集団墓地と現代の火葬場が隣接している一帯もある。

ただ、これらはすべて近代以降に語られ始めたものだ。そして、その多くは幽霊の話である。

柳田國男やなぎたくにおの整理では、幽霊は特定の人につき、妖怪は特定の場所につく。鎌倉の怪談は、そのほとんどが前者だった。誰かが死んだ場所で、その誰かが出る。土地そのものに棲みついて、通りかかる者に等しく悪さをする存在ではない。

つまり鎌倉には、怪異が少ないのではない。妖怪が少ないのである。

仮説その一 ― 記録されてしまった

ここからは私見になる。

鎌倉で起きた不思議な出来事は、たいてい文字になっている。三代将軍・源実朝が深夜の御所で見たという少女の怪異は『吾妻鏡』に、新田義貞が稲村ヶ崎で龍神に祈って潮を引かせたという話は『太平記たいへいき』に記されている。

記録されるということは、日付と場所と当事者が確定するということだ。そうなると、それは「歴史」になる。何年に、誰が、どこで見た、という形で固まってしまう。

一方、妖怪が育つのは、記録を残さない土地である。誰が最初に言い出したのか分からない。いつの話なのかも分からない。ただ「あの辻を夜に通ると出る」とだけ伝わる。名前のない誰かの口から誰かの口へ渡るうちに、輪郭が削れて、代わりに名前がつく。それが妖怪になる過程だと思う。

鎌倉には、その時間が与えられなかった。幕府があり、書記官がいて、出来事は起きたそばから記録された。口伝えで熟成する前に、文字で封をされてしまったのではないか。

仮説その二 ― 神になってしまった

もう一つ、鎌倉には特徴がある。怪異の主が、妖怪ではなく神として祀られていることだ。

鎌倉権五郎景政は、後三年の役で右目を矢に射抜かれたという平安後期の武将である。柳田國男やなぎたくにおは、この景政への信仰を「目一つ五郎」と呼び、全国に分布する片目の神の信仰と結びつけて論じた。片目という身体の欠損は、多くの土地で妖怪の特徴になっている。この台帳の一つ目小僧がそうだ。

だが権五郎は、妖怪にならなかった。坂ノ下の御霊神社に祀られ、眼病平癒の神として今も信仰されている。九月の例祭では面掛行列が行われ、神奈川県の無形民俗文化財に指定されている。

柳田は、祀り手を失った神が零落れいらくして妖怪になる、と考えた。だとすれば逆に、祀られ続けている限り、それは神のままでいられるということになる。鎌倉には寺社が多く、祭りが続いている。零落れいらくする前に、誰かが手入れをしてしまうのかもしれない。

仮説その三 ― 江戸の出版文化から遠かった

三つ目は、時代の問題である。

私たちが知っている妖怪の多くは、江戸時代に姿を与えられたものだ。鳥山石燕とりやませきえんの画集が出版され、百物語が流行し、妖怪は絵と名前を持って商品になった。この台帳で扱っている妖怪にも、初出が石燕の画集というものが少なくない。

その江戸の妖怪ブームが起きていた頃、鎌倉はすでに衰退すいたいした古都だった。幕府は江戸にあり、出版の中心も江戸にある。鎌倉は、人の集まる消費地ではなくなっていた。

妖怪が全国的に流通するには、誰かが絵にして、刷って、売る必要がある。その回路から外れていた土地では、たとえ怪異が語られていても、名前のつく妖怪にまでは育たない。京都は御所があり、公家文化と出版文化の両方に接続していた。31体という数字は、その差なのだと思う。

少ないことも、ひとつの記録である

調べ始めたときは、鎌倉の妖怪を何体か追加して終わるつもりだった。結果として追加できたのは、建長寺の狸和尚一体だけである。

だが、見つからなかったということ自体が、この土地について何かを語っていると思う。妖怪がいるかいないかは、土地の怖さや古さでは決まらない。誰がそこで語り、誰がそれを記録し、誰が絵にして広めたか。その回路の有無で決まる。

妖怪は、怖いものが自然に湧いてくるのではなく、人が作って、人が運ぶものらしい。鎌倉を調べて分かったのは、結局そのことだった。

台帳に空白があるとき、それは調べが足りないだけかもしれないし、本当に何もないのかもしれない。区別がつかないまま、空白のまま残しておく。それでいいのだと思う。