水木しげるは実在の人物であり、以下の生涯・年代は、Wikipedia「水木しげる」、鳥取県公式サイト、日本経済新聞死去記事、日本交通文化協会プロフィール、ネットミュージアム兵庫文学館の記述にもとづく史実として書いている。作品・功績の評価は編者の私見として分けて書く。
本名・武良茂(むら しげる)。1922年(大正11年)、大阪府大阪市住吉区に生まれ、鳥取県境港市で育つ。幼いころ、家に出入りしていた「のんのんばあ」(拝み屋の妻の世話をしていた景山ふさ)から聞いた妖怪の話に強い影響を受け、これが生涯にわたる妖怪への関心の原点になった。太平洋戦争では激戦地・ラバウル(ニューブリテン島)に出征し、爆撃を受けて左腕を失う。復員後は武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)に入学するが中退し、魚屋・輪タク屋・アパート経営者・紙芝居画家など様々な職業を経て、貸本漫画家に転向した。「水木しげる」というペンネームは、神戸市兵庫区水木通で経営していたアパート「水木荘」にちなむ。
1958年、「ロケットマン」で漫画家デビュー。1964年創刊の漫画誌『ガロ』で中心作家として活躍し、1965年、『別冊少年マガジン』掲載の「テレビくん」で講談社児童まんが賞を受賞。1930年代の紙芝居作品『墓場奇太郎』を自身でアレンジした『墓場鬼太郎』を経て、1967年から『週刊少年マガジン』で『ゲゲゲの鬼太郎』の連載を開始、1968年のテレビアニメ化で国民的な人気を獲得し、妖怪漫画の第一人者となった。一方で『総員玉砕せよ!』のように、自身の戦争体験を赤裸々に描いた戦記漫画の第一人者でもある。1966年、水木プロダクションを設立。1990年、『昭和史』で講談社漫画賞受賞。1991年、紫綬褒章。2003年、旭日小綬章受章、故郷・境港市に「水木しげる記念館」が開館し、「水木しげるロード」も敷設された。2010年、妻・布枝の自伝がNHK連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』としてドラマ化され、改めて人生に注目が集まる。同年、文化功労者。海外でもフランス・アングレーム国際漫画賞、米アイズナー賞を受賞するなど評価が高く、2011年には東日本大震災についての一枚がニューヨーク・タイムズに掲載された。90歳を超えても『わたしの日々』(最後の連載作)、青年期に戦地に持ち込んだ愛読書をもとにした『ゲゲゲのゲーテ』など、旺盛な創作を続けた。2015年11月30日、多臓器不全のため93歳で逝去。天皇陛下から弔花が贈られた。
史実:水木は「漫画家」であると同時に「妖怪研究家」でもあった。全国各地の妖怪にまつわる資料を自ら収集し、『水木しげるの妖怪図鑑』などにまとめている。日本文化人類学会の会員でもあり、世界60ヵ国以上を巡って、各地の妖怪・精霊についてのフィールドワークを行った。鳥山石燕『画図百鬼夜行』などの古典的な妖怪画を丹念に研究し、そこに独自の解釈と生命力を与えて再構築したことで、多くの妖怪の「決定的な見た目」を作り上げた人物でもある。一反木綿・ぬりかべ・砂かけ婆・子泣き爺など、この台帳にも登場する妖怪の多くは、水木の絵によって、今のイメージが定着したと言っていい。
私の見方:柳田國男が文字で記録し、小松和彦が理論で説明したものを、水木しげるは「絵」で固定した人だと思う。学術的な研究者ではないけれど、収集し、歩き、描くという行為そのものが、ある意味でもっとも徹底したフィールドワークだったのかもしれない。左腕を失うという壮絶な戦争体験を持ちながら、生涯「なまけ者になりなさい」というような、力の抜けた言葉を残していたことも含めて、恐怖と可笑しみを同時に描ける人だったんだと思う。この台帳の一反木綿の記事を読むとき、多くの人が思い浮かべる絵は、たぶん水木しげるの絵だろうと思う。
大阪市に生まれ、鳥取県境港市で育つ。「のんのんばあ」から妖怪の話を聞く。
ラバウル(ニューブリテン島)に出征。爆撃で左腕を失う。
「ロケットマン」で漫画家デビュー。
「テレビくん」で講談社児童まんが賞受賞。
『ゲゲゲの鬼太郎』連載開始、翌年テレビアニメ化。国民的な人気を獲得。
紫綬褒章。
旭日小綬章。水木しげる記念館・水木しげるロード開設。
NHK連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』放送。文化功労者。
11月30日、多臓器不全のため逝去(93歳)。