これは、確認できる伝承ではありません。江戸怪談百物語とは別の、まったく新しいシリーズとして、編者・一見坊が一から創作した、明治以降の妖怪たち111体です。江戸時代までの妖怪が村や山や辻にいたのに対して、明治以降の暮らしには、工場、鉄道、学校、会社、病院、駅、自動販売機といった新しい場所が生まれた。そのそれぞれに、そこにしかいられない妖怪がいるはずだと考えて書いています。実在の伝承、実在の事件・組織・製品を描いたものではありません。
妖怪は、江戸時代で終わった存在ではないと思う。人が新しい技術や大きな出来事に出会うたびに、そこには必ず、うまく言葉にできない不安や未練が生まれる。この台帳のこれまでの記事が、そうした感覚の積み重ねだったのなら、現代にも、同じ理屈で妖怪が生まれているはずだと考えた。ここに並べたのは、その想像を、思い切って形にしたものです。
特に「職場にいる妖怪」「人と人の関係を邪魔する妖怪」については、小松和彦が妖怪を「人間と人間との関係のなかから立ち現れてくる、自分(たち)の否定的分身」と表現していることを、直接の手がかりにしている。日々の職場や人づきあいの中で、誰もが「あるある」と頷くような困りごとがある。それを個人の性格の問題として名指すのではなく、妖怪という形に預けてしまう。そうすれば、取り憑かれている側も、振り回されている側も、少し離れたところから眺められるようになるかもしれない。なんだ、たかが妖怪か、と。
ただし、妖怪は人の邪魔をするものばかりではない。座敷童子のように、いてくれた方がいい妖怪も必ずいるはずだと思って、「いてほしい妖怪」という区分も作った。鍵をかけたか不安になって戻ったら、ちゃんとかかっていた。満員電車で自分の前だけ席が空いた。そういう小さな幸運にも、名前があっていいと思う。
妖怪の奥深さは、古いものだけにあるわけではないと思う。むしろ、自分たちが今まさに生きている時代の中にこそ、まだ名前のついていない妖怪が、たくさん潜んでいるのかもしれない。そう考えると、少し楽しくなりませんか。カードをタップすると、それぞれの妖怪の詳しい記事に進めます。
大妖怪が何体も重なった場に生まれ、長い年月をかけて一つに融合したものを、この台帳では終末妖怪と呼んでいる。該当するのは常利己(じょうりこ/じょりこ/ジョリコ)のみである。
大妖怪は、人の習慣や考え方が本体から分離して独立したものである。終末妖怪は、その分離したものが同じ場に何体も集まり、一つに融合した姿である。分離が起きた時点で大妖怪、融合が起きた時点で終末妖怪。そこが境目になる。
この妖怪は、人についていない。判断が行われる場所にいる。会議室、稟議書の上、人事を決める席、予算を配る瞬間。そこに座った者に、自分の側に有利な選択をさせる。人が入れ替わっても消えない。
他の妖怪と違う点が三つある。
一、取り憑かれている間の記憶が残らない。判断の場を離れれば、その人は普通の人間に戻る。家では優しい父親であり、休日には人当たりもよい。だから本人には、何が起きているか分からない。
二、振り落とす方法が存在しない。この台帳の他のすべての妖怪には、対処法を書いてきた。一呼吸置く、桶を手に取る、室内を見渡す。どれも小さな行動で解ける。終末妖怪には、それがない。人ではなく場所に憑いているため、振り落としても場所に残る。
三、誰からも指摘されない。この妖怪が長く居着いた場では、反対意見が出なくなる。会議で異論が出ない。稟議に修正が入らない。それを、その席に座った者は、自分の判断が正確である証だと受け取る。
常利己が居着いた場から出てくる判断は、見た目には成功している。数字は上がり、地位も上がる。ただし、その場を通った人間の周りから、本音を言う相手が一人ずつ減っていく。
小物の妖怪は、悪戯好きだと思って可愛がりながら、うまく付き合えばいい。だが大妖怪は違う。絶対に一体になってはならない、と決めている妖怪たちである。
小物の妖怪に取り憑かれても、困るのはたいてい自分だけである。傘を忘れる、電池が切れる、片方の手袋が消える。笑って済む。だが大妖怪は、取り憑かれている本人が一番気づきにくく、そのあいだに周りの人が静かに離れていく。しかも、離れていったことにも気づけない。そこが恐ろしい。
大妖怪と認めた基準は四つある。自分にも取り憑きうること、憑かれている間は自覚がないこと、実際に人が離れていくこと、そして放置すると、その振る舞いから離れられなくなること。この四つが揃ったものだけを、ここに挙げている。
だから、これは他人を名指しするための一覧ではない。自分に憑いていないかを確かめるための一覧である。編者自身、ここに挙げた何体かには、何度も憑かれてきた。
小物の妖怪は、場所や物に最初から居る。傘立て、ロッカー、水風呂の手前。誰が来る前からそこに居て、通る者にちょっかいを出す。
大妖怪は、そうではない。人の習慣や考え方が、本体から分離して独立したものである。
ある振る舞いを、何十年も同じ場所で繰り返す。人を駒として配置する。詰める。飽きたから作り直す。本人がいない場で声を変える。最初はその人がやっていることだが、繰り返しが一定を超えると、その行為が本人から離れて、行われた場所に独立して残る。そこから先は、その席に座った者に同じことをさせる。
だから大妖怪に憑かれた人は、自覚がない。自分から離れたものを、自分では見られないからである。そして本人が去っても、分離したものは場所に残る。次に座る者に、また同じことをさせる。
この考え方は、付喪神と同じ構造だと思う。室町時代の『付喪神絵巻』には、百年を経た器物には精霊が宿るとある。長く使われた道具が、持ち主から離れて独立する。大妖怪は、それを行為でやったものである。
| 何から分離するか | 分離の条件 | |
|---|---|---|
| 付喪神 | 器物 | 百年使われること |
| 大妖怪 | 習慣・考え方 | 何十年、同じ場で繰り返されること |
そして、分離した大妖怪が同じ場に何体も重なり、融合したものが常利己である。この台帳では、それを終末妖怪と呼んでいる。大妖怪とのあいだにもう一段の境界があるのは、融合が起きているかどうかの違いである。
小物の妖怪は、分離ではない。最初から妖怪である。分離という現象が起きた時点で、それは大妖怪になる。そこが階層の境目だと考えている。
この区分は、編者が「湯気文吾」の名義で全国の温浴施設を巡ってきた記録から書いている。実際のサウナ・サ活の記録はサウナイキタイ(湯気文吾)に残していて、どの施設で何を見てきたかは、そちらを見てもらうのが早い。ここに挙げた妖怪は、その巡礼の途中で「これは妖怪の仕業だろう」と思った現象を、ひとつずつ形にしたものである。