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寺田寅彦と妖怪

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寺田寅彦は実在の人物であり、以下の生涯・年代は、Wikipedia「寺田寅彦」、コトバンク、文京区の人物紹介、青空文庫収録「化物の進化」の記述にもとづく史実として書いている。学説・随筆の評価は編者の私見として分けて書く。

1878年(明治11年)、東京生まれ、高知育ち。1896年、熊本の第五高等学校に入学し、英語教師・夏目漱石、物理学教師・田丸卓郎に師事した。ここでの出会いが、科学と文学の両方を志す寺田の生涯を決定づける。1903年、東京帝国大学物理学科卒業。1908年、理学博士号を取得するが、その博士論文は「尺八の音響学的研究」という、日本の伝統楽器を物理学で分析した異色の内容だった。1909〜1911年、ヨーロッパに留学。帰国後の1913年、X線回折に関する「ラウエ斑点」の研究でノーベル賞級と評される成果を上げ、1917年には帝国学士院恩賜賞を受賞した(同じ現象を発見したマックス・フォン・ラウエ自身は1914年にノーベル物理学賞を受賞している)。1916年、東京帝国大学教授。会議が苦手だったこともあり、1925年からは理化学研究所に移り、独自の研究室を主宰。1926年には地震研究所員も兼任し、地球物理学・地震学の分野でも業績を残した。夏目漱石門下の最古参の一人で、『吾輩は猫である』の水島寒月、『三四郎』の野々宮宗八のモデルとされている。1923年の関東大震災を実際に経験し、「震災日記より」「天災と国防」「津浪と人間」など、自然災害についての随筆も多く残した。「天災は忘れた頃にやってくる」の言葉で知られるが、実際の文章はもう少し長く、災害への備えが疎かになる理由を「人間が前車の覆轍を忘れたころに、そろそろ後車を引き出すようなことになるから」と説明したものである。1935年12月31日、転移性骨腫瘍のため57歳で没した。同じ年、教え子筋にあたる湯川秀樹の中間子論の論文が発表されている。

妖怪へのアプローチ ― 「化物の進化」論

史実:随筆集『怪異考/化物の進化』で、寺田は妖怪・怪異を物理学者の目で分析した。「孕のジャン」という地方の怪異を地鳴りとして、「ギバ」という怪異を放電現象として説明する。しかし寺田は、正体を突き止めた上でなお、化物を「人間と自然の正嫡子」として、その存在意義を大いに認めている。雷を例に、昔の人は「虎の皮の褌をつけた鬼の悪ふざけ」だと思い、今の人は「空中電気と称する怪物の活動」だと考えるが、結局は「昔の化物が名前と姿を変えただけ」だという。科学が説明を与えても、神秘そのものは消えず、ただ名前が変わるだけだ、という考え方である。

私の見方:井上円了いのうええんりょうは妖怪を合理的に解体して「なくす」側、柳田國男やなぎたくにおはそれを民俗として「残す」側だったが、寺田はそのどちらとも違う、第三の位置にいると思う。科学的に説明することと、神秘を認めることを、矛盾なく両立させている。子供たちが「頭の頂上から足の爪先まで突き抜けるような鋭い神秘」を感じられなくなることを憂い、化物教育の必要性さえ説いている。ノーベル賞級の物理学者が、同時に「化物は大事だ」と本気で書いている、というこの振れ幅が、寺田という人物の一番の面白さだと思う。地震学者でもあった寺田が、地鳴りという自然現象と、それを説明する怪異の伝承を、両方大切なものとして扱っているのも、この台帳が伝承と史実を両方残そうとしている姿勢と、静かに重なるところがある。

この台帳との接点

寺田の「化物は名前を変えた自然現象だ」という考え方は、この台帳が獺・狼などの絶滅危惧種ぜつめつきぐしゅと妖怪を扱う際の姿勢——動物としての実体が消えても、妖怪としての名前は残り続ける——と、発想の根が近いと思っている。小泉八雲の秘稿画本『妖魔詩話』についての随筆も残しており、この台帳が扱う二人の人物が、実際に接点を持っていたことが分かる。

1878年

東京に生まれ、高知で育つ。

1896年

熊本第五高等学校入学。夏目漱石・田丸卓郎に師事。

1903年

東京帝国大学物理学科卒業。

1908年

理学博士。博士論文は「尺八の音響学的研究」。

1913年
代表的研究

「ラウエ斑点」研究。ノーベル賞級と評される。1917年、帝国学士院恩賜賞受賞。

1916年

東京帝国大学教授。

1923年

関東大震災を経験。「震災日記より」を執筆。

1925年

理化学研究所に移り、寺田研究室を主宰。

1926年

地震研究所員を兼任。

1929年頃
代表作

「化物の進化」「怪異考」等の随筆を執筆。

1935年

12月31日、転移性骨腫瘍のため逝去(57歳)。