天狗だけでも一つのマップになったけれど、山そのものに対する畏れ方は、天狗以外にもいろいろな形で残っている。ここでは、山の神への信仰、猟師・きこりが山中で使った特殊な言葉、そして現代の登山者の間で語られる怪異まで、山と妖怪の関わりを調べ直した。史実(民俗学的に確認できること)と、現代の体験談(個人の体験として語られているだけのもの)は、区別して書く。
山は、里から見れば「境界の外側」にある場所。専門的考察ページで触れた宮田登の境界論からすると、山そのものが日本最大の境界だと思う。
史実:山の神は、多くの地方で女神とされる。容貌が美しくないため嫉妬深く、女性が山に入ることを好まないという伝承があり、これが一部の山における女人禁制の起源のひとつとされる。農民の間では、山の神が春に山から下りて田の神になり、秋にまた山へ帰るという「田の神・山の神」の交替信仰も広く見られる。柳田國男は、この山の神の実体を祖霊(死者の霊が山にとどまって子孫を見守る)とする説を採っている。
私の見方:山仕事をする猟師・きこりの信仰と、田畑を作る農民の信仰では、同じ「山の神」でも少しずつ性格が違うとされているのが面白い。同じ言葉で、違う神様の像を指している、ということだと思う。
史実:マタギや木こりは、山中にいる間だけ使う特殊な言葉「山言葉」を持っていた。里の言葉をそのまま山で使うと山の神の機嫌を損ねる、という考えに基づくもので、水を「わっか」、狼を「やみ」、猿を「キムラ」、蛇を「ナガムシ」、猫を「マガリ」と呼び変えるなど、食べ物・動物・道具にまつわる語を中心に、地方によって異なる言い換えが行われてきた。この習慣は沖縄から下北半島まで広く分布し、猟師や伐木業者の間では現在も一部残っているという。
私の見方:言葉を変えるだけで山という空間を「里とは別の場所」に切り替える、という発想がそのまま境界の感覚を言語化したものになっている。方言の違いというより、結界の合図のようなものだと思う。
史実:マタギ(東北地方の伝統的な猟師集団)には、猟に入る前に山の神へ祈りを捧げる、獲物を得た後は山の神とその使い(犬など)を祀る場所に感謝を捧げる、といった作法が伝わっている。宮崎県などの記録では、猟師は自宅に持ち帰る前に、獲物の毛の一部を切り取って山の神やシバ神(山中で命を落とした者を祀る場所)に捧げる、という具体的な手順が今も語り継がれている。
私の見方:獲物を得ること自体を「山から借りている」という発想で捉えているように見える。山を征服する対象ではなく、頭を下げる相手として扱う態度が、猟という行為そのものに組み込まれているのだと思う。
史実:英彦山(福岡・大分)や高尾山(東京)などの霊山には、深夜に大木が倒れるような音が聞こえるが、翌朝見ても倒れた木がない「天狗倒し」、足腰の弱った参拝者を瞬間的に山上へ移動させるという「天狗さらい」といった現象が伝えられている。人の失踪や遭難が「天狗にさらわれた」と説明された例も、各地の記録に残っている。
天狗にまつわる山の詳細は全国天狗マップにまとめてある。
体験談として:上高地や高尾山など、現在も多くの登山者が訪れる山では、誰もいないはずの夜道で足音だけが近づいてくる、といった体験談が登山専門メディアでも紹介されている。これは史実として確認できる伝承ではなく、個人の体験談・実話怪談として語られているものなので、そのつもりで読んでほしい。ただ、こうした体験が「天狗」や「べとべとさん」のような古い妖怪の語彙で説明され続けていること自体は、記録として面白いと思う。
この台帳の中で、山を主な舞台にしている詳細記事は次の通り(天狗は全国天狗マップへ)。