江戸怪談百物語 / 第6夜 / 両国・夜鳴き蕎麦そば

蕎麦そば屋台

そばやたい
灯芯とうしんを一本、消す。

匂い、まず。湯気に混じる醤油と葱の匂い。次に、音。丼が置かれる音、箸を取る音。それから、声。「へい、お待ち」

両国の橋のたもとに、夜鳴きそばの屋台を出す与平よへいという男がいた。屋台を出すのは、いつも同じ刻限こくげん、同じ場所。それが一番、客を呼び込む道理だと、与平よへいは信じている。

決まった顔がいくつかあった。仕事を終えた駕籠かごかき、遅くまで働く女髪結かみゆいい。そしてその中に、いつも古い形の銭で払う、顔の見えにくい客がいた。灯りの下に立っても、輪郭がぼんやりとしている。

与平よへいは最初、気にせず釣りを渡していた。両替商に持って行くと、「これはもう通用しない銭ですよ」と言われた。それでも与平よへいは、蕎麦そばを出し続けた。相手が何で払おうと、注文された蕎麦そばを出すのが自分の仕事だと思っていたからだ。

ある冷え込む夜、客が早くに来て、めずらしく世間話をした。「橋のたもとは、冷えますね」「へえ、川風が下から来ますから」あたたかい蕎麦そばはありがたい、と客は言い、「昔は、ここも今より賑やかだった気がします」と付け加えた。蕎麦そばを食べ終えると、いつものように古い銭を置いて、橋を渡って行った。提灯ちょうちんの灯りが届かなくなるあたりで、姿がふっと見えなくなった。

その晩を最後に、客は二度と来なかった。近所の年寄りに聞くと、あの橋では昔、身投げがあったという話を、ぽつりと語ってくれた。

与平よへいはその後、思い切ってあの銭を使ってみたことがあった。近くの煙草屋で使ったのだ。ところが、その煙草屋は、それから間もなく、火事で店を失うことになった。それ以来、あの銭を使う気は二度と起きなくなった。箱にしまったまま、誰にも渡さないことだけを、自分に課すようになった。

匂い、また。

湯気は今夜も立つ。音、また。丼を置く音。声、また。

「へい、お待ち」誰に向けて言っているのか、与平よへい自身にも、確かめる術がない。

この話について
編者の後書き
匂い・音・声という感覚の羅列で始め、同じ順で終える構成にした。屋台という場そのものの感覚的な反復を、冒頭と結末で対にすることで、変わらぬ日常の中に潜む異変を際立たせている。
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江戸怪談百物語 全99夜
第1夜文使い 第2夜三味線 第3夜湯屋ゆや 第4夜損料屋 第5夜髪結かみゆいい 第6夜蕎麦そば屋台今、ここ 第7夜質屋しちや 第8夜花火師 第9夜十間店の噂 第10夜花見 第11夜かわたれ 第12夜文字売り 第13夜三人の証言 第14夜絵草紙 第15夜あとを追う男 第16夜借金取り 第17夜祝いの日 第18夜賽の目 第19夜往来切符 第20夜箱の中 第21夜影の分だけ 第22夜夜番 第23夜双子の橋 第24夜最後の客 第25夜百物語のあと 第26夜役者絵 第27夜三つの願い 第28夜聊斎の客 第29夜能面の女 第30夜三つ子の産婆 第31夜忘れ物 第32夜蜘蛛の糸 第33夜永代橋の約束 第34夜影法師の借金 第35夜蔵の中の声 第36夜柳の下の男 第37夜首なし地蔵 第38夜百夜通い 第39夜読めない文 第40夜鏡師の遺言 第41夜羅生門の跡 第42夜変身 第43夜三人姉妹 第44夜狂気の沼 第45夜桶の中の顔 第46夜辻斬りの家 第47夜狐の嫁入り 第48夜虫の音 第49夜千両箱 第50夜消えた花嫁 第51夜耳無し芳一の弟 第52夜蛍の宿 第53夜竈かまどの中の声 第54夜紙人形の恋 第55夜鴉の遺言 第56夜くじの村 第57夜動かない番頭ばんとう 第58夜覚え違いの家庭教師 第59夜寄せ集めの人形 第60夜森の中の疑い 第61夜菊の約束 第62夜葦を刈る女 第63夜双六の果て 第64夜蜃気楼しんきろうの店 第65夜木霊の宿題 第66夜蝸牛の使者 第67夜百物語を辞める男 第68夜かかし問答 第69夜氷売りの影 第70夜蝙蝠問屋 第71夜錠前屋の鍵 第72夜提灯ちょうちんの灯り分け 第73夜蟬の宿替え 第74夜紅葉の便り 第75夜百物語の火 第76夜開かずの間 第77夜竹取の後日 第78夜酒呑みの罠 第79夜反物たんものの行方 第80夜蟻の行列 第81夜三日月の刀 第82夜硯の中の海 第83夜駕籠かごの中の声 第84夜金魚の目 第85夜蝶の遺言 第86夜石の記憶 第87夜三味線堀の月 第88夜蜻蛉の道しるべ 第89夜竹箒の踊り 第90夜縄暖簾のれんの声 第91夜提灯ちょうちんの返し忘れ 第92夜百足の忠告 第93夜鶴の恩返しの後 第94夜百物語の百一話目 第95夜影送り 第96夜九十九の灯 第97夜灯芯とうしんの続き 第98夜宮崎の灯 第99夜最後の灯芯とうしん