匂い、まず。湯気に混じる醤油と葱の匂い。次に、音。丼が置かれる音、箸を取る音。それから、声。「へい、お待ち」
両国の橋のたもとに、夜鳴きそばの屋台を出す与平という男がいた。屋台を出すのは、いつも同じ刻限、同じ場所。それが一番、客を呼び込む道理だと、与平は信じている。
決まった顔がいくつかあった。仕事を終えた駕籠かき、遅くまで働く女髪結い。そしてその中に、いつも古い形の銭で払う、顔の見えにくい客がいた。灯りの下に立っても、輪郭がぼんやりとしている。
与平は最初、気にせず釣りを渡していた。両替商に持って行くと、「これはもう通用しない銭ですよ」と言われた。それでも与平は、蕎麦を出し続けた。相手が何で払おうと、注文された蕎麦を出すのが自分の仕事だと思っていたからだ。
ある冷え込む夜、客が早くに来て、めずらしく世間話をした。「橋のたもとは、冷えますね」「へえ、川風が下から来ますから」あたたかい蕎麦はありがたい、と客は言い、「昔は、ここも今より賑やかだった気がします」と付け加えた。蕎麦を食べ終えると、いつものように古い銭を置いて、橋を渡って行った。提灯の灯りが届かなくなるあたりで、姿がふっと見えなくなった。
その晩を最後に、客は二度と来なかった。近所の年寄りに聞くと、あの橋では昔、身投げがあったという話を、ぽつりと語ってくれた。
与平はその後、思い切ってあの銭を使ってみたことがあった。近くの煙草屋で使ったのだ。ところが、その煙草屋は、それから間もなく、火事で店を失うことになった。それ以来、あの銭を使う気は二度と起きなくなった。箱にしまったまま、誰にも渡さないことだけを、自分に課すようになった。
匂い、また。
湯気は今夜も立つ。音、また。丼を置く音。声、また。
「へい、お待ち」誰に向けて言っているのか、与平自身にも、確かめる術がない。