神田の小さな一杯飲み屋の縄暖簾が、風のない日にも、時折、かすかに揺れることがあった。店主の徳次は、それを、常連客たちの合図だと思っていた。
ある晩、徳次が縄暖簾に向かって、「今日はもう仕舞いだよ」と声をかけると、暖簾は、それに応えるように、ぴたりと動きを止めた。徳次はそれ以来、店を閉める合図として、必ず暖簾に一声かけることを、習いにするようになった。
ところが、この暖簾は、少々気難しい性分らしかった。徳次が客に愛想笑いをしすぎた晩は、揺れが荒くなる。安酒を高く売った晩も、同じだった。徳次は、暖簾に見張られているようで、次第に居心地が悪くなっていった。
「うるさいな、お前は」徳次が思わず言い返すと、暖簾は、ぱたぱたと、まるで笑っているかのように揺れた。それからは、徳次が暖簾に文句を言い、暖簾が揺れて応じる、という妙な掛け合いが、毎晩の閉店前の習いになった。
新しく入った弟子が、その様子を見て、「暖簾と喧嘩しているのですか」と聞いた。徳次は、少し恥ずかしそうに、「これは、うちの流儀だ」とだけ答えた。
弟子は、そのうち自分も、暖簾に言い返す日が来るのだろうと、なんとなく感じている。