江戸怪談百物語 / 第78夜 / 神田・居酒屋

酒呑みの罠

さけのみのわな
灯芯とうしんを一本、消す。

神田の居酒屋に、毎晩訪れる大酒飲みの客がいた。店主の茂平もへいは、その客がどれだけ飲んでも、決して酔い潰れないことを、少し不思議に思っていた。

ある晩、茂平もへいは試してみた。強い酒を、水で薄めて出したのだ。客は気づかずに飲み続け、やはり酔う様子はなかった。それどころか、薄めた分だけ、いつもより機嫌が良さそうに見えた。

客が帰った後、いつもの席に、飲みかけの盃が一つ残されていた。茂平もへいが確かめると、中身は、ただの水だった。薄めて出した酒ではない。混ぜようのない、澄んだ水だった。

茂平もへいはそれ以来、その客が来るたびに、燗酒とは別に、水を一杯、そっと添えるようになった。客は毎晩、酒より先に、その水を飲み干した。

「なぜ、水も欲しがるのですか」茂平もへいが思い切って尋ねると、客は少し驚いた顔をして、「酒だけでは、喉が渇いたままなのです」と答えた。それ以上は語らなかった。その言葉には、どこか、長い渇きが染みついているように、茂平もへいには聞こえた。

茂平もへいは、それ以上、客の正体を確かめようとはしなくなった。ただ、水を添えるたびに、その渇きが、少しでも和らいでいるといいと、思うようになった。

この話について
編者の後書き
出した酒の総量を神社の酒樽と照合する仕掛けから、客自身の言葉「喉が渇いたままなのです」による直接的な告白に変えた。数字による裏付けではなく、客の一言が、正体を明かさないまま、その渇きの深さだけを伝える構成にしている。
← 前の話第77夜 竹取の後日 次の話 →第79夜 反物たんものの行方
江戸怪談百物語 全99夜
第1夜文使い 第2夜三味線 第3夜湯屋ゆや 第4夜損料屋 第5夜髪結かみゆいい 第6夜蕎麦そば屋台 第7夜質屋しちや 第8夜花火師 第9夜十間店の噂 第10夜花見 第11夜かわたれ 第12夜文字売り 第13夜三人の証言 第14夜絵草紙 第15夜あとを追う男 第16夜借金取り 第17夜祝いの日 第18夜賽の目 第19夜往来切符 第20夜箱の中 第21夜影の分だけ 第22夜夜番 第23夜双子の橋 第24夜最後の客 第25夜百物語のあと 第26夜役者絵 第27夜三つの願い 第28夜聊斎の客 第29夜能面の女 第30夜三つ子の産婆 第31夜忘れ物 第32夜蜘蛛の糸 第33夜永代橋の約束 第34夜影法師の借金 第35夜蔵の中の声 第36夜柳の下の男 第37夜首なし地蔵 第38夜百夜通い 第39夜読めない文 第40夜鏡師の遺言 第41夜羅生門の跡 第42夜変身 第43夜三人姉妹 第44夜狂気の沼 第45夜桶の中の顔 第46夜辻斬りの家 第47夜狐の嫁入り 第48夜虫の音 第49夜千両箱 第50夜消えた花嫁 第51夜耳無し芳一の弟 第52夜蛍の宿 第53夜竈かまどの中の声 第54夜紙人形の恋 第55夜鴉の遺言 第56夜くじの村 第57夜動かない番頭ばんとう 第58夜覚え違いの家庭教師 第59夜寄せ集めの人形 第60夜森の中の疑い 第61夜菊の約束 第62夜葦を刈る女 第63夜双六の果て 第64夜蜃気楼しんきろうの店 第65夜木霊の宿題 第66夜蝸牛の使者 第67夜百物語を辞める男 第68夜かかし問答 第69夜氷売りの影 第70夜蝙蝠問屋 第71夜錠前屋の鍵 第72夜提灯ちょうちんの灯り分け 第73夜蟬の宿替え 第74夜紅葉の便り 第75夜百物語の火 第76夜開かずの間 第77夜竹取の後日 第78夜酒呑みの罠今、ここ 第79夜反物たんものの行方 第80夜蟻の行列 第81夜三日月の刀 第82夜硯の中の海 第83夜駕籠かごの中の声 第84夜金魚の目 第85夜蝶の遺言 第86夜石の記憶 第87夜三味線堀の月 第88夜蜻蛉の道しるべ 第89夜竹箒の踊り 第90夜縄暖簾のれんの声 第91夜提灯ちょうちんの返し忘れ 第92夜百足の忠告 第93夜鶴の恩返しの後 第94夜百物語の百一話目 第95夜影送り 第96夜九十九の灯 第97夜灯芯とうしんの続き 第98夜宮崎の灯 第99夜最後の灯芯とうしん