湯島の学者、宗玄が、古い硯を手に入れた。墨を擦るたびに、硯の池の部分に、小さな波が立つように見える。宗玄はそれを、硯の作りの妙だと思い、面白がって使い続けた。
ある晩、宗玄が難しい書き物に詰まっていると、硯の中から、潮の匂いがした。匂いを感じた途端、なぜか、詰まっていた言葉が、すらすらと出てくるようになった。宗玄は、これはただの気の緩みだろうと思ったが、次の日も、同じことが起きた。
宗玄は、それ以来、書き物に詰まると、わざと硯に鼻を近づけて、潮の匂いを探すようになった。傍から見れば、妙な癖にしか見えなかったが、宗玄にとっては、確かな効き目のあるまじないだった。
弟子が、その様子を不思議がって尋ねると、宗玄は真顔で、「この硯には、海が入っている」と答えた。
弟子は半信半疑だったが、いつか自分も、書き物に詰まったとき、こっそり硯に鼻を近づけてみようと思っている。