「この曲は、もう一度だけ、合わせて弾いたことがある」
お律は、弟子にそれだけ言った。深川の裏長屋で三味線を教えて、もう長い。隣の部屋は、ずっと空いている。
あの晩、片付けをしていると、隣から音がした。ぽつり、ぽつりと。師匠がよく弾いていた、稽古本にも載っていない曲だった。誰かの物真似には聞こえない。息を詰める間の取り方、撥の当て方の癖。師匠そのものだった。
お律は壁に耳を寄せ、動けなかった。曲が終わると、音は止んだ。
翌晩も、同じ刻限に。
お律は三味線を持って、壁際に座った。「遅れず、走らず」教わった通りに弾いた。二つの音が重なって、終わった。それきり、隣は静かになった。
「なぜ、教えてくれないのですか」弟子が、その曲を教えてほしいとせがんだ。
お律は少し考えて、「教われば、お前もいつか、誰もいない部屋に向かって弾く晩が来るかもしれない」とだけ答えた。それは、お律一人で持っているべきものだった。
師匠の墓は、深川から少し離れた寺にある。線香を上げ、手を合わせると、あの晩のことが浮かんだ。心の中で、もう一度弾いたことを報告した。返事はない。それでも、報告せずにはいられなかった。
帰り道、お律は、自分がいつのまにか、師匠の年に近づいていることに気づいた。稽古の合間、隣の空き部屋の壁を、ふと見つめてしまう。何かを期待しているわけではない。ただ、あの晩の音の余韻が、まだそこに残っているような気がしてしまう。
「もう一件、話しておくことがある」お律は、後になって、古くからの近所の年寄りから、師匠の最期について聞かされた。病ではない。弟子の一人との揉め事の末、自ら命を絶ったのだという。あの晩の曲は、師匠がその後、最後に一人で弾いていた曲だったのかもしれない。
お律は、あの曲を合わせて弾いたことを、少しだけ後悔するようになった。