深川に、ある公家の娘に恋をした武士が、百夜通えば想いを叶えてもらえるという約束を交わした、という言い伝えが残っている。武士は雨の夜も、雪の夜も、欠かさず娘のもとへ通い、通った証に、門の柱に、小さな刻みを一つずつ、つけていった。
九十九夜目の晩、武士は激しい嵐の中を、それでも通い続けた。娘は武士を気の毒に思い、「もう、今夜だけは休んでください。明日、百夜目に来てくだされば、それでよいのです」と言った。武士はそれに従い、体を休めたが、翌朝、目を覚まさなかった。
娘は、その日から、毎晩、門を開けて待つようになった。ある晩、娘は、門の柱に、自分の手で、最後の刻みを一つ、彫り足そうとした。だが、刻もうとした場所には、すでに、小さな刻みが一つ、彫られていた。娘には、覚えのないものだった。
娘は、それが誰の手によるものか、確かめようとはしなかった。ただ、その刻みに、そっと指を這わせた。刻みの形は、武士がこれまで彫った九十九の刻みより、少しだけ深く、力を込めて彫られているように感じられた。
娘はそれから、毎晩、屋敷の門を開けて、誰も来ない百夜目を、今も待ち続けているという。