一年目。上野の山に、一人の女が現れる。敷物を広げ、酒も肴も持たずに、桜を見上げている。
近くで宴を開いていた商家の者たちが、酒や肴を勧める。女は静かに礼を言うが、口をつけない。「桜が見事でございます」それだけを繰り返す。
数年目。花見の常連である老いた商人が、思い切って女に素性を尋ねる。女は困ったように笑って、「もう随分前から、ここに来ております」と答えるだけだった。
その後。商人は、古い知り合いから、何十年も前、上野の花見の最中に、若い娘が人違いで斬られて死んだという話を聞く。娘は花見に来ていただけで、何の関わりもなかったのに、酔った侍同士の争いに巻き込まれたのだという。話を聞いた場所は、ちょうど女がいつも敷物を広げるあたりだった。
翌年。商人は何も聞かず、ただ隣に座る。女は何も言わず、少し嬉しそうな様子を見せた。
さらに聞き知る。娘を斬った侍は、身分ゆえに罪を問われることなく、そのまま何事もなかったように暮らし続けたという。商人は、毎年花見の宴を開く人々が、まさにその斬られた場所のあたりに敷物を広げていることに、初めて気づく。誰もそのことを知らず、ただ美しい山だと思って、笑い合っている。
商人が年老いて、花見に出られなくなった年も、女は同じ場所に現れたという。誰が隣に座ったのかは、誰も知らない。
商人の息子は、父が亡くなった後、初めてその場所を訪れる。女がいた。何も聞かずに、隣に座る。女は少し驚いた様子を見せたが、すぐに、いつものように静かに桜を見上げた。
毎年、桜が咲く頃になると、上野の山はにぎわいを増す。人の多さに紛れて、あの敷物の女に気づく者は、案外少ないのかもしれない。
それでも、気づく者が一人でもいる限り、女はそこに座り続けるのだろう。