上野の不忍池のほとりに、大きな柳の木があった。その下に、いつも一人の男が立っているのを見た者が、幾人もいた。ある夜、池のほとりを通りかかった若い侍、新之助が、面白半分に男に声をかけた。男は、もう何十年も前に、この池で亡くなった妻を、ここで待ち続けていると言った。
新之助自身、許嫁を病で亡くしたばかりだった。新之助は、「もう、諦めてもよいのではないか」と言った。それは、新之助自身に向けた言葉でもあった。男は静かに笑って、「諦める、という言葉の意味が、私には分からないのです」と答えた。
新之助は、その言葉を聞いて、何も言えなくなった。ただ、男の隣に、しばらく黙って立っていた。二人は、何も話さず、池の水面を眺めていた。しばらくして、男はふと、「あなたも、誰かを待っているのですね」と言った。新之助は、それに答えなかったが、頷くこともしなかった。ただ、その場を、もう少しだけ、一緒に立っていた。
翌朝、柳の下には誰もいなかった。新之助はその後も、時折その柳の下を通ったが、男を見かけることは、二度となかった。
新之助は、あの晩、一緒に立っていた時間だけが、自分にも、男にも、必要だったのだと、今は思っている。