湯島の一角に、代筆を生業とする久兵衛という男がいた。読み書きのできない者のために、恋文から借用証文まで、何でも代わりに書く。ある日、身なりの整った初老の男が来て、「これから書くことを、そのまま書いてくれ」と言い、口述を始めた。
男の言葉を、そのまま書き取った文の一部が、これである。
――生まれは、神田の裏長屋。父は早くに亡くなり、母の手で育てられた。十で奉公に出て、二十で店を持った。女房を持ち、子を育てた。それだけの、何でもない一生だった。
久兵衛は、言われるままに筆を運んでいた。ふと気づくと、次の一節が、こう続いていた。
――生まれは、神田の裏長屋。父は早くに亡くなり、母の手で育てられた。
久兵衛自身の生まれと、一字も違わない。久兵衛は筆を止めて、男の顔を見た。男は静かな顔で、「続きを」と促した。
文章はやがて、久兵衛がまだ人には話していない、幼い頃の出来事にまで及んだ。「最後に、これを書いてくれ」男は、来月のある晩の日付を告げた。久兵衛はその日付を書きながら、手が震えた。
男は懐から銭を出し、深々と頭を下げて、帰っていった。久兵衛は、その文を、誰に渡すためのものか尋ねなかったことに、後になって気づいた。
その日付の晩、久兵衛は一人で座っていた。戸を叩く音がしたのは、五つを回った頃だった。開けると、誰もいなかった。ただ、店先に、あの文が置かれていた。灯りの下で確かめると、文字はすべて、自分の筆跡だった。だが、最後の一行だけ、見覚えのない字で、こう書き加えられていた。
――これで、書き終わった。
久兵衛の店の壁には、これまで書き続けた文の写しが、束になって積まれている。その束の一番下に、あの日付だけを書いた紙が、今も紛れ込んでいる。束の紙は、年々増え続けている。
いつか自分がその束の一番上に、新しい紙を積むことになる晩のことを、久兵衛は、ふと考える。