行き。帰り。二つの橋。よく似ている。名は違う。「行きの橋」「帰りの橋」。由来を知る者は、もう少ない。
ある晩。酔った職人が、習いを忘れた。行きの橋を、帰り道に渡った。
渡り終えて、妙だと思った。
町並みが、少し違う。看板の文字。路地の曲がり方。見覚えはあるのに、ずれている。
酔いのせいだと思った。家に着いた。戸口の位置が、逆になっている気がした。戸を叩く。出てきた女房は、少し驚いた顔をした。それ以上は、何も言わず、いつものように迎え入れた。
翌朝。いつもの暮らしに戻っていた。見間違いだったのだろう、と思い直した。
幾年か経った。職人は年老いた。若い頃の仲間と、あの橋のことを話した。仲間が言った。「お前、あの晩、行きの橋を帰りに渡っただろう」
そんなことがあったか、と聞いた。仲間は言った。「お前は覚えていないだろうが、あの晩から、お前は前とは少し変わったよ。前より、口数が少なくなった」
自分の中に、何かが入れ替わってしまったのではないか。職人は、そのとき初めて疑った。確かめる術は、もうなかった。
それ以来、双子橋を渡るときだけ、必ず、行きと帰りの順を、頭の中で三度確かめるようになった。
孫が、なぜそこまで橋の順を気にするのか、理由を聞いた。「渡り方を間違えると、帰れなくなる」職人は、それだけ答えた。孫には、まだよく分からない。
若い夫婦が、この町に越してきた。橋の名の由来を知らず、行きも帰りも、同じ橋を渡っていた。職人は、それを見かけ、声をかけて、橋の順を教えてやった。夫婦は、怪訝な顔をしながらも、礼を言った。
自分がかつて、誰にも教えてもらえずに渡り違えたことを、職人は見送りながら思い出していた。
今も、双子橋は同じ場所にある。橋の名の由来を知る者は、年々少なくなっている。それでも、この町で育つ子供たちは、なぜか自然と、行きと帰りで橋を分けて渡る習いを、誰に教わるでもなく覚えていく。それが、この土地に根付いた、一つの作法として、静かに残り続けている。
渡り方を間違えた者が、今日もどこかで、少しだけ違う町を歩いているのかもしれない。