江戸怪談百物語 / 第11夜 / 雑司ヶ谷・語り婆

かわたれ

かわたれ
灯芯とうしんを一本、消す。

「昔、この長屋にね、夫婦が住んでいた」

おとせは、茶を一口飲んで、そう切り出す。

夕暮れになると、近所の子供たちが土間どまに集まって、この続きをせがむのが、いつもの習いだった。おとせは、日が完全に落ちる前の、かわたれ時にしか語らない。なぜかと聞いても、答えたことはない。

「女房にょうぼうが身重でね。産み月が近かった」

亭主は薪売りで、毎日遠くまで出かけていた。ある晩、帰りが遅くなり、かわたれ時に長屋の路地に入ったところ、井戸のそばに、自分の女房にょうぼうと瓜二つの女が立っていた。声をかけると、女はすうっと井戸の中に消えた。慌てて家に戻ると、女房にょうぼうは普段と変わらぬ様子で、夕飯の支度をしていた。

「それで、女房にょうぼうさんはどうなったの」子供の一人が、身を乗り出して聞く。

おとせは少し黙って、それから続ける。産み月が来て、女房にょうぼうは無事に子を産んだ。だが、亭主が産婆を呼びに走った、まさにそのかわたれ時、井戸の女の姿は、二度と見えなくなったという。

「井戸の女は、きっと女房にょうぼうさんを守っていたんだね」別の子供が言う。

おとせは、それには答えず、ただ湯呑みを置く。

子供たちが帰った後、おとせは一人になった土間どまで、語らなかった続きを思い出す。生まれた子は、母親によく似ていたが、右の目の下に、井戸の女とまったく同じ、小さな黒子があった。亭主はそれを見て、それ以上何も言わず、以来、かわたれ時に外を出歩くことを、二度としなかったという。

なぜかわたれ時にしか語らないのか。おとせ自身も、うまく答えられないだろう。ただ、その刻限こくげんにだけ、口が自然とその話を語りたがる。

長屋の子供たちは、今も夕暮れになると、おとせの家に集まってくる。おとせは変わらず、かわたれ時にしか語らない。子供たちの中には、いつか自分も、おとせのような婆になって、同じ話を、同じ刻限こくげんに、誰かに語ることになるのだろうかと、ふと考える子もいる。

長い間この長屋に住んでいるおとせは、自分の右の目の下にも、小さな黒子があることを、誰にも話したことがない。

この話について
編者の後書き
聞き手の子供たちの相槌をセリフとして増やし、語りの現場そのものを前景化した。おとせの独白ではなく、語る場の空気を描くことで、入れ子構造をより鮮明にしている。
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江戸怪談百物語 全99夜
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