〈舞台、稽古場。灯り、行灯一つ。市之助、面を取り出す〉
深川の能楽稽古場に、旅の僧が一晩の宿を求めてやってきた。稽古場の主、市之助は僧を迎え入れ、夜、共に酒を酌んだ。僧が能面の由来を尋ねると、市之助は、蔵にしまってある一枚の女面を取り出して見せた。
〈市之助、面の内側を灯りに近づける。爪の形の跡、幾つか〉
その面は、かつてこの稽古場で舞台に立った女能楽師が、自らの顔を写して作らせたものだという。恋人に裏切られた恨みを抱いたまま、若くして亡くなった。市之助は、その女能楽師の弟弟子だった。恨みを抱いたまま死んだ姉弟子を、市之助は今も、うまく弔いきれていない気がしていた。面の内側の跡は、舞う手つきではなく、何かを掻くような、苦しむ手の跡だった。
〈僧、面を取る。舞、始まる〉
僧は面を手に取り、「せっかくの機会です、少しだけつけさせてください」と申し出た。市之助は止めたが、僧は聞かず、面をつけて、静かに舞い始めた。
〈舞、次第に激しくなる。灯り、消える〉
舞ううちに、僧の動きは、次第に激しく、恨みに満ちた動きに変わっていった。舞台の灯りが消えた瞬間、僧の姿は、そこにはなかった。
〈翌朝、面、舞台の中央〉
面だけが、稽古場の中央に、丁寧に置かれていた。面の内側の爪の跡は、その晩、一つだけ新しく増えていた。
市之助は、それを見て、姉弟子の恨みが、少しだけ晴れたのかもしれないと思うことにした。