銀引き、一度。通常の混ぜ物。銀引き、もう一度。清兵衛だけが加えるもの――涙、一滴。
神田で鏡を作る仕事をしている鏡師、清兵衛は、生涯の終わりに、一人娘に一つだけ言い残した。「私の作った鏡は、どれも売ってよい。だが、蔵の一番奥にある、あの丸鏡だけは、誰にも売ってはならない」その鏡は、清兵衛が若い頃、早くに亡くした妻の顔を、最後に映した鏡だった。
清兵衛が亡くなった後、娘は父の言葉を守り、その丸鏡だけは、蔵の奥深くにしまい続けた。ある年、店が困窮し、娘はやむなく、その丸鏡を売ることを考えた。娘が鏡を取り出し、埃を払ったとき、鏡の中に、父の顔が映っているのに気づいた。
銀引き、調べる。
娘は、鏡師の技を継いだ弟子に、この鏡の裏の銀の塗り方を、調べてもらった。弟子は、この鏡の銀引きに、通常とは違う、独特の混ぜ物がされていることに気づいた。当時の鏡師の間では、特別に大切な人のために鏡を作る際、自分の涙を、ほんの一滴、銀の中に混ぜ込むという、密かな習いがあったという。
銀引き、今も光る。
娘はその鏡を、結局売らずに、店の奥に飾ることにした。それ以来、店が困ったときには、なぜか思いがけない客が現れて、店を助けてくれるということが、幾度か続いた。
娘は、それが父の涙のおかげなのかどうか、確かめる術はなかったが、鏡を売らなかったことだけは、正しい選択だったと信じている。