江戸怪談百物語 / 第42夜 / 本所・虫問屋

変身

へんしん
灯芯とうしんを一本、消す。

本所で鈴虫や蟋蟀を商う虫問屋の主人、清六せいろくが、ある朝、目を覚ますと、体が思うように動かなかった。手足が。こわばる。声を出そうとしても。かすれた音。それだけ。

清六せいろくは、自分の体が、少しずつ、店で商っている虫のように、小さく硬くなっていくのを感じた。声は。届かない。家族は「主人は寝込んでいる」と。思い込む。いつものように店を開け、虫の世話を続ける。

清六せいろくは長年、店の仕事を、家族の誰にも詳しく教えていなかった。仕入れの伝手も、虫の見分け方も。清六せいろく一人の。頭の中にしかなかった。

清六せいろくがいなくなって数日後、息子が帳場の帳面ちょうめんを整理していると、最後の頁の隅に、これまで気づかなかった小さな書き込みを見つけた。仕入れ先の名と、値の付け方の要領が、几帳面ちょうめんに記されていた。書かれた日付は、清六せいろくが目を覚まさなくなった、その前日だった。

清六せいろくは、籠の隅にいる。

動けない。息子が、その書き込みのおかげで、店を続けることができたことを。知らない。女房にょうぼうが籠の掃除をしながら、「近頃、鈴虫の音が、心なしか寂しげだね」と呟く。それだけが。清六せいろくに。届いた。最後の言葉。だった。

この話について
編者の後書き
清六せいろくの意識に近づくにつれ、文を意図的に途切れさせ、体言止めや一語文を増やす構成にした。体が硬直していく様を、言葉自体が途切れていく形で表す試みである。
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江戸怪談百物語 全99夜
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