本所で鈴虫や蟋蟀を商う虫問屋の主人、清六が、ある朝、目を覚ますと、体が思うように動かなかった。手足が。こわばる。声を出そうとしても。かすれた音。それだけ。
清六は、自分の体が、少しずつ、店で商っている虫のように、小さく硬くなっていくのを感じた。声は。届かない。家族は「主人は寝込んでいる」と。思い込む。いつものように店を開け、虫の世話を続ける。
清六は長年、店の仕事を、家族の誰にも詳しく教えていなかった。仕入れの伝手も、虫の見分け方も。清六一人の。頭の中にしかなかった。
清六がいなくなって数日後、息子が帳場の帳面を整理していると、最後の頁の隅に、これまで気づかなかった小さな書き込みを見つけた。仕入れ先の名と、値の付け方の要領が、几帳面に記されていた。書かれた日付は、清六が目を覚まさなくなった、その前日だった。
清六は、籠の隅にいる。
動けない。息子が、その書き込みのおかげで、店を続けることができたことを。知らない。女房が籠の掃除をしながら、「近頃、鈴虫の音が、心なしか寂しげだね」と呟く。それだけが。清六に。届いた。最後の言葉。だった。