利根川の河岸で、ある男が、貧しい女と結ばれ、夫婦になった。男は都で身を立てるため、女を残して旅に出た。「三年で戻る」と男は約束したが、都での暮らしは思いのほか長くなり、三年が十年になった。
ある年、男は故郷が恋しくなり、久しぶりに河岸の家を訪ねた。女は、以前と変わらぬ姿で、家で機を織りながら、男の帰りを待っていた。男は喜び、一夜を共にした。
翌朝、目覚めると、女の姿はどこにもなかった。家は荒れ果て、長く人が住んでいない様子だった。ただ、男の着物の裾に、見覚えのない一本の糸が絡みついていた。男は、それを引きほどこうとしたが、どれだけ引いても、糸は切れなかった。指に食い込むほど強く引いても、切れる気配がない。
男は、途方に尽きて、思わず、女の名を呼んだ。十年ぶりに、声に出して。その名を呼んだ瞬間、糸は、ふっと力を失って、切れた。
近くの老人に、女がもう何年も前に、貧しさの中で病に倒れ、亡くなっていたと聞いた。男は、あの糸が、女の名を呼ばれるまで、切れることを拒んでいたのだと悟った。名を呼ばれなければ、まだ誰かに待たれているままでいられる。
男は、昨夜の一夜と、その糸が、女の魂が最後まで手放さなかった、ただ一つの望みだったのだと思うようになった。