江戸怪談百物語 / 第53夜 / 深川・煮売り屋

竈かまどの中の声

かまどのなかのこえ
灯芯とうしんを一本、消す。

支度、まず火をおこす。次に、竈かまどに向かって、今日も、と声をかける。それから、鍋を置く。

深川で惣菜を商う煮売り屋の女将、おかねが、ある晩、竈かまどの火を落とそうとしたとき、竈かまどの中から、小さな子供の声で「もう少し、あたためて」と聞こえた。おかね自身、奉公ほうこうに出た若い頃、火の始末を怠って、店の女将から厳しく叱られたことがあった。「火を、生きているものとして扱いなさい」という言葉を、おかねは今も忘れられない。

支度、続き。

それから毎晩、店を閉める時分になると、同じ声が聞こえるようになった。ある年、竈かまどの修繕をすることになり、古い土を崩してみると、内側の粘土に、小さな手形が一つ、押されているのが見つかった。この竈かまどが最初に築かれた際、まだ土が乾く前に、誰かの子供の手が、押し付けられた跡だった。

支度、手形の大きさを確かめる。おかねは、その手形の大きさを、自分の手のひらと比べてみた。声の子供は、おそらく、この手形とちょうど同じ年頃の子供だったのだろうと、おかねは思うようになった。

支度、今日も。

おかねはそれ以来、店を閉めるとき、必ず「今日も、あたたかかったね」と、竈かまどに向かって声をかけるようにしている。

この話について
編者の後書き
竈かまどの仕事の手順「支度、まず……次に……」を各段落の合図とし、日々の労働の反復の中に怪異を織り込む構成にした。仕事の手引きのような語りが、静かな供養くようの行為へと転じている。
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江戸怪談百物語 全99夜
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