支度、まず火をおこす。次に、竈に向かって、今日も、と声をかける。それから、鍋を置く。
深川で惣菜を商う煮売り屋の女将、おかねが、ある晩、竈の火を落とそうとしたとき、竈の中から、小さな子供の声で「もう少し、あたためて」と聞こえた。おかね自身、奉公に出た若い頃、火の始末を怠って、店の女将から厳しく叱られたことがあった。「火を、生きているものとして扱いなさい」という言葉を、おかねは今も忘れられない。
支度、続き。
それから毎晩、店を閉める時分になると、同じ声が聞こえるようになった。ある年、竈の修繕をすることになり、古い土を崩してみると、内側の粘土に、小さな手形が一つ、押されているのが見つかった。この竈が最初に築かれた際、まだ土が乾く前に、誰かの子供の手が、押し付けられた跡だった。
支度、手形の大きさを確かめる。おかねは、その手形の大きさを、自分の手のひらと比べてみた。声の子供は、おそらく、この手形とちょうど同じ年頃の子供だったのだろうと、おかねは思うようになった。
支度、今日も。
おかねはそれ以来、店を閉めるとき、必ず「今日も、あたたかかったね」と、竈に向かって声をかけるようにしている。