「まだだ」
日本橋の大店の蔵に、代々「開けてはならない」と言い伝えられている古い木箱があった。ある年の当主、伝五郎が、これを迷信だと笑い、蔵の整理のついでに、その箱を開けてみることにした。蓋に手をかけた瞬間、たしかに、その声が聞こえた。
「まだだ」
伝五郎はその晩、先代の日記を読み返してみた。日記には、「この箱、当家に何かの大事が起こる前触れとして、必ず一度だけ開けねばならぬ日が来る」と記されていた。
「まだだ、まだ」
伝五郎は、大工に頼んで、箱に使われている木の材を、傷めないよう、少しだけ調べてもらった。大工は、木目の詰まり方から、この木が、ある年の落雷で裂けた木の一部だと言った。店の古い記録を辿ると、その落雷があった年は、まさに、当家が一度、大火で店を失いかけた年と、同じだった。
「まだだ、と、今も」
伝五郎は、この箱の木そのものが、当家にとって「大事」と呼べる出来事があった年の記憶を、木目の中に刻んでいるのではないかと考えるようになった。それ以来、箱を開けるのを、それ以上試みないことにした。
ただ、蔵を見回るたびに、あの箱の前で、少しだけ足を止めるようになった。