江戸怪談百物語 / 第15夜 / 本所・研師

あとを追う男

あとをおうおとこ
灯芯とうしんを一本、消す。

本所で刀を研ぐ茂吉もきちには、悩みがある。誰かに後をつけられている、という思い込みだ。悩みだと、自分では思っている。だが、それが本当に思い込みなのか、茂吉もきち自身にも、もう分からなくなっていた。

最初は、仕事場から長屋へ帰る道で、背後に足音を感じるだけだった。振り返っても誰もいない。だが、その足音は、自分の歩調と正確に合っていた。速く歩けば速くなり、遅く歩けば遅くなる。自分自身の足音が、少しだけ遅れて追いかけてくるようだった――と、茂吉もきちは思っていた。誰かに話したわけではない。話せば、頭がおかしくなったと思われるだけだと分かっていたからだ。

ある晩、我慢できず、路地の暗がりに身を潜めた。正体を確かめようとした。足音は、たしかに近づいてきた。飛び出して確かめた瞬間、そこには誰もいなかった。ただ、自分の足音だけが、路地の奥から、まだ聞こえていた――と、茂吉もきちには聞こえた。

仕事仲間たちは、近頃の茂吉もきちが、妙に殺気立った様子で、道すがら何度も後ろを振り返っているのを見ていた。誰もいない路地に向かって、「もう分かったから、出てこい」と、低く声をかけているのを見た者もいる。それが何を意味するのか、仲間たちには分からない。

茂吉もきち自身の語るところによれば、後をつけてくる者は、決して危害を加えようとはしない。ただ、少しだけ遅れて、同じ道を、同じ歩調で歩き続けているだけだという。恐ろしいとは、もう思わなくなった。むしろ、いなくなることの方を、恐れるようになった。

「たぶん、俺がまだ若かった頃に置いてきた、もう一人の俺なんだろう」ある研ぎ仲間が思い切って尋ねたとき、茂吉もきちはそう答えた。仲間はそれ以上、何も言わなかった。

茂吉もきちの研ぐ刀は、近頃、一段と冴えると評判になっている。理由を尋ねても、茂吉もきちは「後ろの気配のおかげだ」とだけ答える。それ以上は語らない。研ぎ場の隅の砥石だけが、毎晩、静かに、茂吉もきちの手の動きを見つめている。

今夜も、茂吉もきちが長屋へ帰る道には、二人分の足音が、少しだけ間を置いて響いている。

この話について
編者の後書き
茂吉もきちの証言と、傍観者の視点を意図的に混在させ、どちらの言葉が信頼できるのか、あえて判然としないようにした。文中の「――と思っていた」という留保を挟むことで、語り自体の不安定さを文体化している。
← 前の話第14夜 絵草紙 次の話 →第16夜 借金取り
江戸怪談百物語 全99夜
第1夜文使い 第2夜三味線 第3夜湯屋ゆや 第4夜損料屋 第5夜髪結かみゆいい 第6夜蕎麦そば屋台 第7夜質屋しちや 第8夜花火師 第9夜十間店の噂 第10夜花見 第11夜かわたれ 第12夜文字売り 第13夜三人の証言 第14夜絵草紙 第15夜あとを追う男今、ここ 第16夜借金取り 第17夜祝いの日 第18夜賽の目 第19夜往来切符 第20夜箱の中 第21夜影の分だけ 第22夜夜番 第23夜双子の橋 第24夜最後の客 第25夜百物語のあと 第26夜役者絵 第27夜三つの願い 第28夜聊斎の客 第29夜能面の女 第30夜三つ子の産婆 第31夜忘れ物 第32夜蜘蛛の糸 第33夜永代橋の約束 第34夜影法師の借金 第35夜蔵の中の声 第36夜柳の下の男 第37夜首なし地蔵 第38夜百夜通い 第39夜読めない文 第40夜鏡師の遺言 第41夜羅生門の跡 第42夜変身 第43夜三人姉妹 第44夜狂気の沼 第45夜桶の中の顔 第46夜辻斬りの家 第47夜狐の嫁入り 第48夜虫の音 第49夜千両箱 第50夜消えた花嫁 第51夜耳無し芳一の弟 第52夜蛍の宿 第53夜竈かまどの中の声 第54夜紙人形の恋 第55夜鴉の遺言 第56夜くじの村 第57夜動かない番頭ばんとう 第58夜覚え違いの家庭教師 第59夜寄せ集めの人形 第60夜森の中の疑い 第61夜菊の約束 第62夜葦を刈る女 第63夜双六の果て 第64夜蜃気楼しんきろうの店 第65夜木霊の宿題 第66夜蝸牛の使者 第67夜百物語を辞める男 第68夜かかし問答 第69夜氷売りの影 第70夜蝙蝠問屋 第71夜錠前屋の鍵 第72夜提灯ちょうちんの灯り分け 第73夜蟬の宿替え 第74夜紅葉の便り 第75夜百物語の火 第76夜開かずの間 第77夜竹取の後日 第78夜酒呑みの罠 第79夜反物たんものの行方 第80夜蟻の行列 第81夜三日月の刀 第82夜硯の中の海 第83夜駕籠かごの中の声 第84夜金魚の目 第85夜蝶の遺言 第86夜石の記憶 第87夜三味線堀の月 第88夜蜻蛉の道しるべ 第89夜竹箒の踊り 第90夜縄暖簾のれんの声 第91夜提灯ちょうちんの返し忘れ 第92夜百足の忠告 第93夜鶴の恩返しの後 第94夜百物語の百一話目 第95夜影送り 第96夜九十九の灯 第97夜灯芯とうしんの続き 第98夜宮崎の灯 第99夜最後の灯芯とうしん