本所で刀を研ぐ茂吉には、悩みがある。誰かに後をつけられている、という思い込みだ。悩みだと、自分では思っている。だが、それが本当に思い込みなのか、茂吉自身にも、もう分からなくなっていた。
最初は、仕事場から長屋へ帰る道で、背後に足音を感じるだけだった。振り返っても誰もいない。だが、その足音は、自分の歩調と正確に合っていた。速く歩けば速くなり、遅く歩けば遅くなる。自分自身の足音が、少しだけ遅れて追いかけてくるようだった――と、茂吉は思っていた。誰かに話したわけではない。話せば、頭がおかしくなったと思われるだけだと分かっていたからだ。
ある晩、我慢できず、路地の暗がりに身を潜めた。正体を確かめようとした。足音は、たしかに近づいてきた。飛び出して確かめた瞬間、そこには誰もいなかった。ただ、自分の足音だけが、路地の奥から、まだ聞こえていた――と、茂吉には聞こえた。
仕事仲間たちは、近頃の茂吉が、妙に殺気立った様子で、道すがら何度も後ろを振り返っているのを見ていた。誰もいない路地に向かって、「もう分かったから、出てこい」と、低く声をかけているのを見た者もいる。それが何を意味するのか、仲間たちには分からない。
茂吉自身の語るところによれば、後をつけてくる者は、決して危害を加えようとはしない。ただ、少しだけ遅れて、同じ道を、同じ歩調で歩き続けているだけだという。恐ろしいとは、もう思わなくなった。むしろ、いなくなることの方を、恐れるようになった。
「たぶん、俺がまだ若かった頃に置いてきた、もう一人の俺なんだろう」ある研ぎ仲間が思い切って尋ねたとき、茂吉はそう答えた。仲間はそれ以上、何も言わなかった。
茂吉の研ぐ刀は、近頃、一段と冴えると評判になっている。理由を尋ねても、茂吉は「後ろの気配のおかげだ」とだけ答える。それ以上は語らない。研ぎ場の隅の砥石だけが、毎晩、静かに、茂吉の手の動きを見つめている。
今夜も、茂吉が長屋へ帰る道には、二人分の足音が、少しだけ間を置いて響いている。