殻の裂け目。まっすぐではない。少し曲がっている。
本所のある家の庭木に、毎年同じ場所で、蟬が羽化するのを、家の子供たちが楽しみにしていた。ある年、羽化したばかりの蟬が、いつまでも飛び立たず、木にしがみついたままだった。子供たちが心配して見ていると、蟬は、まるで人の言葉のような調子で、小さく鳴いた。長年この家で亡くなった祖父が、よく口にしていた咳払いの調子と、どこか似ていた。
一番幼い子供が、木に近づいて、「おじいちゃん、久しぶり」と声をかけた。蟬は、その声に応えるように、羽を一度、大きく広げた。それから、ゆっくりと飛び立っていった。
蟬が飛び立った後、木の根元に、抜け殻が一つ、残っていた。母親が、それを拾い上げてみると、殻の背中の裂け目が、一つの文字の形になっているのに気づいた。祖父の名の一字と、よく似た形をしていた。母親は、それを誰にも言わず、そっと文箱にしまった。
翌年も、同じ木で蟬が羽化したが、殻の裂け目は、ただの裂け目だった。あの年だけ、殻の形が、名の一字を象っていたのだと、母親は今も、一人だけで知っている。
この家の裏手には、同じ木が、もう何十年も立っている。木の下では、毎年、蟬が羽化する。
この家は、そうした小さな出来事を、家の行事として迎えるようになった、この界隈でも少し珍しい家として、今も静かに、そこにある。