王子の里で、秋になると虫の音を聞きに出かける「虫聴き」という遊びが、江戸の人々の間で流行っていた。ある年寄りの俳人、宗因が、毎年同じ場所で虫の音を聞くのを楽しみにしていた。宗因の妻は、生前、琴を弾くのが好きだった。
ある年、その場所に行くと、いつもより一段と美しい音色が聞こえてきた。その美しい音は、実は虫ではなく、亡くなった宗因の妻が、生前好んで弾いていた琴の調子だった。宗因はそれに気づいた瞬間、涙が止まらなくなった。
宗因は、その調子に合わせて、思わず、口ずさんでみた。声にしたのは、妻がその曲を弾くとき、いつも一緒に口ずさんでいた、他愛のない即興の歌詞だった。長い間忘れていたはずのその歌詞が、口から自然にこぼれ出た。
宗因は、自分がまだ、あの頃のことを、体のどこかで覚えていたのだと知った。虫聴きに出かけるたびに、宗因は、その歌詞を、声には出さず、口の中だけで確かめている。
曲の題も、譜面も、宗因にはもう必要がなかった。