本所に、損料屋があった。主人は重蔵。布団、着物、鍋釜。銭を取って貸す。それが商いだ。
蔵の隅に、一枚の布団があった。誰も借りたがらない。悪い品ではない。ただ、湿っていた。人が今しがた寝たばかりのように、ほのかに温かい。畳んでも、次に出せば、また同じだけ温かい。
重蔵は、それを貸すのをやめた。理由は分からない。ただ、手放してはいけない気がした。
ある年の底冷えする晩。困った様子の男が来た。今夜だけでいい、と言う。頬がこけ、着物は薄い。重蔵は、思い切って、あの布団を出した。
男は幾度も頭を下げた。震える手で、銭を払った。夜道を遠ざかる提灯の灯りが、いつまでも心に残った。
翌朝。男は布団を返しに来た。「久しぶりに、あたたかい夜でございました」それだけを言って、帰っていった。
蔵に戻して、気づいた。
布団は、もう湿っていなかった。ただの、乾いた軽い布団だった。
重蔵は、それ以来、この布団を普通に貸すようになった。誰も、あの男が何者だったのか、聞かなかった。名も、住まいも。
損料屋という商いは、誰のものでもない物を、誰かのために回す仕事だ。あの布団も、長い間、誰かがそれを使うのを、ただ待っていた。使われて、初めて、物として役目を終えることができたのだろう。
重蔵は、蔵の中の他の品を、時折そんな目で見るようになった。動かないまま棚に置かれている品を見ると、早く誰かに借りてもらいたい、と思うようになった。この一件があってからのことだ。
蔵の帳面を見直す折、重蔵は、古い品々を、一つひとつ手に取って確かめるようになった。誰も借りない品にも、由来がある。ある鍋は、火事で焼け出された家族が、最初に借りたものだった。ある行灯は、長患いの病人のために、夜通し借りられ続けたものだった。重蔵は、その由来を、帳面の端に、小さく書き添えるようになった。
物には、貸し借りの数だけ、覚えていることがあるのかもしれない。重蔵は、そう思うようになっている。
半月ほど経った頃。重蔵は本所の自身番から、思いがけない知らせを受けた。あの晩、布団を借りに来た男とよく似た風体の者が、橋の下で凍え死んでいるのが見つかったという。亡くなっていたのは、まさにあの晩のことらしい。
だとすれば、翌朝布団を返しに来て、頭を下げたのは、いったい誰だったのか。
重蔵は、それ以上、確かめる気になれなかった。
ただ、それからは、あの布団を貸すときだけ、少し丁寧に手を合わせるようになった。