江戸怪談百物語 / 第52夜 / 王子・蛍狩り

蛍の宿

ほたるのしゅく
灯芯とうしんを一本、消す。

王子の川辺で、毎年蛍狩りの季節に、一夜だけ現れるという宿があった。旅人がその季節にこの道を通ると、蛍の光に導かれるように、灯りの点いた宿の前に出るという。

ある旅の商人、太吉たきちが、日暮れて道に迷い、その宿にたどり着いた。太吉たきちは、長旅の疲れと、商いの不首尾で、気落ちしていた。宿の主人は親切に迎え入れ、風呂と食事を振る舞ってくれた。太吉たきちは一晩泊まり、翌朝、旅立った。

数日後、太吉たきちは同じ道を通りかかった別の旅人に、あの宿のことを話した。旅人は不思議そうな顔をして、「この道に、宿などありません」と言う。太吉たきちは驚いて、自分が泊まった場所を探したが、そこには、古い蛍塚と呼ばれる小さな墓標が一つ、あるだけだった。

太吉たきちはそれ以来、蛍狩りの季節になると、必ずその塚に立ち寄るようになった。ある年、塚のそばで、地元の古老ころうと出会った。古老ころうは、太吉たきちの泊まった宿の話を聞いて、しばらく黙り込み、ふと、こう言った。「その宿の名は、何と申しましたか」太吉たきちが思い出した名を告げると、古老ころうの顔色が変わった。それは、かつてこの土地に本当にあった宿の名と、同じだった。宿は、太吉たきちが生まれるより前に、火事で焼けてなくなっていたという。

太吉たきちは、自分が泊まった一晩が、いつの時代のものだったのか、もう分からなくなった。

それでも、毎年、その塚に立ち寄ることだけは、やめなかった。

この話について
編者の後書き
蛍の数を数える仕掛けから、宿の名を口にした瞬間、古老ころうの顔色が変わるという、会話の中での発見に変えた。数を照合するのではなく、名前という言葉そのものが、時を超えた符合を明らかにする構成にしている。
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江戸怪談百物語 全99夜
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