王子の川辺で、毎年蛍狩りの季節に、一夜だけ現れるという宿があった。旅人がその季節にこの道を通ると、蛍の光に導かれるように、灯りの点いた宿の前に出るという。
ある旅の商人、太吉が、日暮れて道に迷い、その宿にたどり着いた。太吉は、長旅の疲れと、商いの不首尾で、気落ちしていた。宿の主人は親切に迎え入れ、風呂と食事を振る舞ってくれた。太吉は一晩泊まり、翌朝、旅立った。
数日後、太吉は同じ道を通りかかった別の旅人に、あの宿のことを話した。旅人は不思議そうな顔をして、「この道に、宿などありません」と言う。太吉は驚いて、自分が泊まった場所を探したが、そこには、古い蛍塚と呼ばれる小さな墓標が一つ、あるだけだった。
太吉はそれ以来、蛍狩りの季節になると、必ずその塚に立ち寄るようになった。ある年、塚のそばで、地元の古老と出会った。古老は、太吉の泊まった宿の話を聞いて、しばらく黙り込み、ふと、こう言った。「その宿の名は、何と申しましたか」太吉が思い出した名を告げると、古老の顔色が変わった。それは、かつてこの土地に本当にあった宿の名と、同じだった。宿は、太吉が生まれるより前に、火事で焼けてなくなっていたという。
太吉は、自分が泊まった一晩が、いつの時代のものだったのか、もう分からなくなった。
それでも、毎年、その塚に立ち寄ることだけは、やめなかった。