有明海の沿岸で、蜃気楼が見える日に限って、海の上に、見たこともない立派な店が現れるという言い伝えがあった。ある商人が、それを一目見ようと、船を出して近づいてみた。
店に近づくにつれ、商人にはたしかに、暖簾や看板の文字まで、はっきりと見えるようになった。ただ、その文字は、商人の知るどの文字とも違う、見たこともない形をしていた。読めるようで、読めない。店の中には、人影らしきものが動いているようにも見えたが、それが人なのか、単なる光の揺らぎなのかも、判じがたかった。
船が店の前に着いたとき、店は、跡形もなく消えていた。商人は、それきり、あの店の正体について、何一つ分からないままである。ただ、それ以来、蜃気楼が出る日には、必ず船を出して見に行くことだけは、やめられなくなった。
商人は、あの店が何だったのか、いつか分かる日が来るとは、もう思っていない。それでも、あの見たこともない文字と、判じがたい人影のことを、忘れることもできない。
分からないままであることが、案外、悪くない気もしている。