帳面にはこうある。「一件、取り立て不能。相手先不明。賭場、旧記帳による」
神田で掛け取りを稼業にする伝八は、その筋の中でも、取り立ての厳しさで知られていた。相手がどれほど言い訳を並べても、決して手を緩めず、必ず何かを取って帰る。それだけに、取り立てられない借金というのは、伝八にとって、ひどく癪に障る存在だった。
帳面には書けないことも、ある。
伝八はその帳面を、面白半分に持ち歩いていた。ある晩、賭場の帰り道で、身なりの整った男に声をかけられた。「その帳面、貸してもらえないか」渡すと、男は静かに笑った。「これは、俺の名だ」
案内された先は、古い空き寺。
男は懐から重い巾着を取り出し、伝八に手渡した。「これで、貸しは終わりだ」巾着を確かめようとした瞬間、男の顔がふと歳を取ったように見えた。銭の重さに気を取られて、深く考えなかった。
翌朝。中身は、古い賭場の駒札だった。木の駒。今では何の価値もない。あの空き寺は、荒れ果てて、誰も住んでいなかった。
賭場の古い顔役に尋ねた。「ああ、それはもう、五十年も前の借金だ。借主は、返せずに首をくくったと聞いている」
伝八は、あの晩渡された巾着を、もう一度確かめた。木の駒札の底に、小さく彫られた文字。伝八自身の名だった。
――俺は、いつか、あの空き寺で誰かに帳面を渡す番になるのか。
その夜から、伝八は、そのことを考えずにはいられなくなった。伝八の女房は、夫がそれ以来、取り立ての仕事に、以前ほどの厳しさを見せなくなったことに気づいていた。手加減をするようになったわけではない。
ただ、相手が本当に困り果てている様子を見ると、以前よりも少しだけ、長く待ってやるようになっていた。