深川の永代橋のたもとで、幼い頃から許嫁の約束を交わした男女がいた。男は商いのため、長崎まで幾年もの旅に出ることになり、橋の上で「必ず、この橋で待っている」と約束を交わして別れた。
女は、年老いた母を看取り、家業を一人で守りながら、それでも毎年、約束の日には橋のたもとに立ち続けた。二十年目のその日、橋の向こうから、一人の男が歩いてくるのが見えた。それは、旅立った男の息子だった。父はすでに長崎で亡くなっていたが、死ぬ前に、この橋で待つ女に、必ず詫びを伝えてくれと言い残したという。
女はその場に座り込んだ。息子が、父の遺した文を渡した。文の墨は、ところどころ薄く、滲んでいた。息子が言うには、父は文を書くたびに、必ず一度、書き終えたものを読み返してから、封をしていたという。その滲みは、書いたその場でついたものではなく、後になって、何度も読み返された跡だった。
女は、その滲みの箇所を、指でそっとなぞってみた。ちょうど、「待っている」という一語のあたりに、滲みが集まっていた。父は、長崎で、幾度も自分の文を読み返し、その一語の上で、指を止めていたのだろう。女は、男が本当に来なかったわけではなく、来られないまま、その一語だけを、何度も確かめ続けていたことを知った。
それからも、女は毎年、約束の日に橋のたもとに立ち続けた。
橋を渡る人々は、いつも同じ場所に立つ老女を、特に気にすることもなく、通り過ぎていく。