閉店の貼り紙を出してから、初めて研ぎ物が来た。
男は鉈を新聞紙に包んで持ってきた。握りの木は黒く、刃には欠けが二つあった。裕子が紙を広げると、男は両手を膝に置いた。
「まだ頼めますか?」
来月には店を畳む。棚を空け、工具を引き取ってもらう日も決まっていた。裕子は手首を押さえ、刃を裏返した。
「一週間くらいかかるよ」
男はうなずいた。仕事着の袖に木の皮がついていた。
「お金の代わりに、薪じゃ駄目ですか?」
店の薪ストーブは、閉める日まで使うつもりだった。一束でよいと答え、受取票を出した。男は名前を書く欄をしばらく見た。
「取りに来るから」
裕子は日付と、鉈一本、と書いた。男は控えを持って帰った。
東長岡のこの店で、裕子は三十六年、カウンターの内側に立った。昔は農具もよく出た。今は電池と洗剤が多い。研ぎ物は何本かまとめて作業するようになっていた。
閉店の挨拶に来る人が続いた。棚はいくらかと聞かれ、昔の店の写真を見せられた。写真には、前の道が舗装されていないころの店が写っていた。裕子の姿はなかった。
一週間後、男が薪を持ってきた。
「ごめんね、まだなんだよ」
男は店の隅へ薪を置き、鉈を持たずに帰った。裕子はその晩、二本燃やした。
翌週、男はまた薪を持ってきた。前にもらったと話したが、もう軽トラックから下ろしたあとだった。
裕子は、明日こそやろうと思った。手首の痛まない日に。帳簿が済んでから。
研いだのは、閉店の四日前だった。
砥石を何度か往復しただけで、研いだところの色が変わった。思ったより力は要らず、刃の欠けは早く消えた。
拭いて台へ置いたあと、棚から種豆の袋を下ろした。底が裂け、豆が台を跳ねた。床の豆の中に、二つに切れたものがあった。
台の端から、鉈の刃が少し出ていた。
裕子は一粒落としてみた。豆は刃に当たり、半分ずつになって落ちた。もう一粒拾いかけ、やめた。
豆切丸の話を思い出した。このあたりで、鉈を得るため長く薪を運んだ若者がいた。その刃は豆を切るほど鋭く、やがて殿様に取り上げられた。
受取票は二十日も前の日付だった。
翌朝、町内で昔の道具の展示を準備している人が、研ぎ台と秤の写真を撮りに来た。
鉈の形を見て、包みを開いてもよいかと聞かれた。豆のことを話すと、切れた豆も一緒に撮りたいと言った。
「豆切丸を思い出しますね」
裕子が、私もそう思ったと答えると、担当者は展示の話をした。昔の道具は、使う人がいなくなると捨てられてしまう。店の名前と、裕子が研いでいる写真も残したいという。
カウンターの内側にばかりいたので、裕子自身の写った店の写真は少なかった。棚がなくなれば、ここに店があったことも分からなくなる。
「預かり物だけどね」
「持ち主に聞いてもらえますか? 一週間だけでも」
裕子は受取票を裏返した。電話番号はなかった。
閉店の日、男は薪を持ってきた。裕子は鉈を見せた。男は刃より先に握りを見て、黒い木のへこみへ親指を入れた。
「展示したいって人がいるんだけど」
男は握りから手を離した。
「これは使うから」
「一週間だけ。そのあとすぐ返すから」
男は裕子を見た。裕子は、研ぎ台も秤も一緒に展示することを話した。店の名前も出る。昔の仕事を知ってもらえる。話しているうちに、男の手がカウンターから下りた。
「返してくれるんだな?」
「もちろん」
男は控えを出しかけ、しまった。裕子は今日の薪は要らないと伝えた。男は荷台へ戻し、一束ずつ積み直した。
鉈は研ぎ台や秤と一緒に運ばれた。台を外した床は、そこだけ色が濃かった。
展示の初日、裕子は招かれて出かけた。ケースの鉈の下には、割れた豆が二つ並んでいた。豆切丸の伝説を紹介する文章と、店の古い写真があった。
裕子が砥石に刃を当てている写真もあった。手元がよく見えるよう、大きく引き伸ばされていた。
隣の小さい札は、所有者不詳となっていた。
「預かり物なんですけど」
裕子が言うと、担当者は、自分の名前でよければ貸出者として記録できると答えた。鉈の写真を見て来た人もいて、あと一週間延ばしたいとも言った。
裕子は男へ聞かなければと思った。電話番号はない。閉店の貼り紙にも、自分の連絡先は書いていなかった。
「店へ取りに来るかもしれないから」
「こちらへ案内する紙を貼っておきましょうか?」
裕子はうなずいた。担当者は、鉈を返すと研ぎの展示が寂しくなるのだと言った。裕子の写真にも、鉈が写っている。
紙に、名前を書く欄があった。
裕子は自分の名を書いた。住所と電話番号も、今度は全部書いた。
帰りに店へ寄った。扉の前に、一束の薪が置いてあった。控えはなかった。
薪を内側へ入れて、扉を閉めた。ストーブはもう、引き取られたあとだった。