赤ん坊が泣きやむと、美緒はしばらく動けなかった。
皿を置く音まで大きく聞こえた。窓を閉め、流しの水を細くし、湯の沸いたやかんを火から下ろす。夕飯はそのあとだった。
桜町の川に近いアパートへ越してきて、ひと月になる。夫の勤め先が変わり、前より広い部屋を借りられた。子どもは三か月だった。夫は夜勤のある仕事で、いる晩は代わりに抱いた。
美緒は子どもの頭を支え、部屋の端から端まで歩いた。台所へ戻ると、茶が冷えていた。
ある晩、壁の向こうで戸が閉まった。
美緒は立ち止まった。抱いている子は泣いていた。聞こえている。隣に。美緒は窓をもう一度確かめ、子どもに、もう寝よう、と小さい声で言った。
次の晩から、その壁のそばを歩かなくなった。
隣には女の人が一人で住んでいた。廊下で会うと、美緒はいつもすみませんと頭を下げた。女の人は、大きくなったねと言い、美緒はそうなんですと答えた。名前を聞くところまでは、話が続かなかった。
別の泣き声が聞こえたのは、夫が休みの夜だった。
子どもは夫の腕で眠っていた。美緒が台所の窓を開けると、外から細い声が聞こえた。夫も顔を上げた。
「どこの子だろう?」
美緒は玄関を出た。声は川の方からした。通りの明るいところまで行ったが、人影はなかった。立ち止まっているうちに途切れた。
戻ると、夫は子どもを布団へ下ろしていた。二人で窓を開けて待ったが、もう聞こえなかった。
翌朝、ごみを出す隣の人へ話すと、夜泣き石のことを知っているかと聞かれた。
このあたりにキギスという女の人がいた。その子が石になり、夜になると泣いた。のちに人がお地蔵さんの姿を彫ったのだという。
「お母さんは?」
美緒が聞くと、隣の人は、そこまでは覚えていないと答えた。
昼間に町の昔話を調べた。赤ん坊をさらった男が殺そうとしたところで、子は石になる。夜に泣き、人々が供養する。別の話では子は成長したとも書いてあった。母親がそのあとどうしたかは、どちらにも書いてなかった。
子どもが起きたので、画面を閉じた。
次の夜勤の晩、抱けば少し静かになり、布団へ下ろすとまた泣いた。美緒は同じことを何度も繰り返した。自分の靴下が床に落ちていたが、かがめばまた泣きそうで拾わなかった。
窓は閉まっていた。それでも、外から声がした。
腕の中の子が息を吸う。その短い間にも、細い声は続いていた。美緒は聞き分けようとして、自分も息を止めた。
今夜は外へ行けない。夫は明け方まで帰らない。
子どもを抱いて玄関へ行き、靴を履いた。どこへ行くかは決めていなかった。廊下へ出ると、隣の戸の下に明かりがあった。
美緒は立ち止まった。泣き声が廊下へ広がった。腕の中で子どもが身をよじり、靴下が片方落ちた。
戻ろうとしたが、戸を叩いた。
隣の人は部屋着で出てきた。奥のテレビで誰かが笑っていた。
「起こしましたか?」
「まだ起きてるよ」
うるさくてすみません。美緒はそう言いかけた。声が聞こえますか? それも、言いかけた。
「少し、一緒にいてもらえますか?」
隣の人は美緒を見た。腕の中の子を見て、それから壁の時計へ目をやった。
「朝は早いんだけど。十時くらいまでなら」
美緒はうなずいた。断られると思っていたので、何時か分からなくなった。
隣の人は靴を端へ寄せ、美緒が座れるよう、玄関の先の椅子から鞄を下ろした。美緒は靴を脱ぐのにもたついた。片方を揃えると、もう片方がひっくり返った。
「そのままでいいよ」
子どもは泣いていた。隣の人も、あやすのが上手というわけではなかった。手を振ってみせたが、目を向けてもらえず、途中で手を下ろした。
美緒は少し笑った。笑うと、息を吸えた。
テーブルの郵便が片づけられ、カップが二つ出てきた。隣の人はやかんを火にかけた。
外で、また細い声がした。
「聞こえますか?」
隣の人も戸口へ顔を向けた。
「聞こえるね」
美緒は腕の中を見た。この子が泣いているあいだも、向こうの声は続いていた。
「あの話の子かね?」
隣の人はそう言ったが、確かめには行かなかった。火を弱め、美緒の正面へ座った。
美緒は時計を見た。まだ十時にはならなかった。腕の位置を変え、子どもの背へ手を当てた。泣き声は、どちらもやまなかった。
「そういえば、お名前は?」
隣の人が言った。
美緒は子どもの名前を答えかけ、口を止めた。
「私ですか?」
隣の人はうなずいた。
美緒は自分の名前を言った。子どもの泣き声に重なり、聞き返された。
美緒は息を吸い直した。隣の人に聞こえる大きさで、もう一度言った。
「美緒です」