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創作改稿 / 第5話 / 桜町さくらまち・大坪川

戸口とぐち

自分の声まで、小さくしていた。

紫波の伝承をもとにしたフィクションです。登場人物・現代の出来事は創作です。

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赤ん坊が泣きやむと、美緒みおはしばらく動けなかった。

皿を置く音まで大きく聞こえた。窓を閉め、流しの水を細くし、湯の沸いたやかんを火から下ろす。夕飯はそのあとだった。

桜町さくらまちの川に近いアパートへ越してきて、ひと月になる。夫の勤め先が変わり、前より広い部屋を借りられた。子どもは三か月だった。夫は夜勤のある仕事で、いる晩は代わりに抱いた。

美緒は子どもの頭を支え、部屋の端から端まで歩いた。台所へ戻ると、茶が冷えていた。

ある晩、壁の向こうで戸が閉まった。

美緒は立ち止まった。抱いている子は泣いていた。聞こえている。隣に。美緒は窓をもう一度確かめ、子どもに、もう寝よう、と小さい声で言った。

次の晩から、その壁のそばを歩かなくなった。

隣には女の人が一人で住んでいた。廊下で会うと、美緒はいつもすみませんと頭を下げた。女の人は、大きくなったねと言い、美緒はそうなんですと答えた。名前を聞くところまでは、話が続かなかった。

別の泣き声が聞こえたのは、夫が休みの夜だった。

子どもは夫の腕で眠っていた。美緒が台所の窓を開けると、外から細い声が聞こえた。夫も顔を上げた。

「どこの子だろう?」

美緒は玄関を出た。声は川の方からした。通りの明るいところまで行ったが、人影はなかった。立ち止まっているうちに途切れた。

戻ると、夫は子どもを布団へ下ろしていた。二人で窓を開けて待ったが、もう聞こえなかった。

翌朝、ごみを出す隣の人へ話すと、夜泣き石のことを知っているかと聞かれた。

このあたりにキギスという女の人がいた。その子が石になり、夜になると泣いた。のちに人がお地蔵じぞうさんの姿を彫ったのだという。

「お母さんは?」

美緒が聞くと、隣の人は、そこまでは覚えていないと答えた。

昼間に町の昔話を調べた。赤ん坊をさらった男が殺そうとしたところで、子は石になる。夜に泣き、人々が供養くようする。別の話では子は成長したとも書いてあった。母親がそのあとどうしたかは、どちらにも書いてなかった。

子どもが起きたので、画面を閉じた。

次の夜勤の晩、抱けば少し静かになり、布団へ下ろすとまた泣いた。美緒は同じことを何度も繰り返した。自分の靴下が床に落ちていたが、かがめばまた泣きそうで拾わなかった。

窓は閉まっていた。それでも、外から声がした。

腕の中の子が息を吸う。その短い間にも、細い声は続いていた。美緒は聞き分けようとして、自分も息を止めた。

今夜は外へ行けない。夫は明け方まで帰らない。

子どもを抱いて玄関へ行き、靴を履いた。どこへ行くかは決めていなかった。廊下へ出ると、隣の戸の下に明かりがあった。

美緒は立ち止まった。泣き声が廊下へ広がった。腕の中で子どもが身をよじり、靴下が片方落ちた。

戻ろうとしたが、戸を叩いた。

隣の人は部屋着で出てきた。奥のテレビで誰かが笑っていた。

「起こしましたか?」

「まだ起きてるよ」

うるさくてすみません。美緒はそう言いかけた。声が聞こえますか? それも、言いかけた。

「少し、一緒にいてもらえますか?」

隣の人は美緒を見た。腕の中の子を見て、それから壁の時計へ目をやった。

「朝は早いんだけど。十時くらいまでなら」

美緒はうなずいた。断られると思っていたので、何時か分からなくなった。

隣の人は靴を端へ寄せ、美緒が座れるよう、玄関の先の椅子から鞄を下ろした。美緒は靴を脱ぐのにもたついた。片方を揃えると、もう片方がひっくり返った。

「そのままでいいよ」

子どもは泣いていた。隣の人も、あやすのが上手というわけではなかった。手を振ってみせたが、目を向けてもらえず、途中で手を下ろした。

美緒は少し笑った。笑うと、息を吸えた。

テーブルの郵便が片づけられ、カップが二つ出てきた。隣の人はやかんを火にかけた。

外で、また細い声がした。

「聞こえますか?」

隣の人も戸口とぐちへ顔を向けた。

「聞こえるね」

美緒は腕の中を見た。この子が泣いているあいだも、向こうの声は続いていた。

「あの話の子かね?」

隣の人はそう言ったが、確かめには行かなかった。火を弱め、美緒の正面へ座った。

美緒は時計を見た。まだ十時にはならなかった。腕の位置を変え、子どもの背へ手を当てた。泣き声は、どちらもやまなかった。

「そういえば、お名前は?」

隣の人が言った。

美緒は子どもの名前を答えかけ、口を止めた。

「私ですか?」

隣の人はうなずいた。

美緒は自分の名前を言った。子どもの泣き声に重なり、聞き返された。

美緒は息を吸い直した。隣の人に聞こえる大きさで、もう一度言った。

「美緒です」

この話の足元

確認した資料
佐藤正雄『ふるさと物語』第76回/広報しわ第182号、1970年9月10日「キギスと夜泣き石」(紫波町公式サイトで確認、2026年11月8日閲覧)。
資料に記録された伝承
桜町さくらまちの大坪川辺に住んだとされるキギスと、その子が危害を加えられようとしたとき石となり、夜に泣くという伝承、後世の地蔵じぞう供養くようの語りを確認した。子が成長したとする別伝も併記されている。これらを史実と認定せず、資料が記す石や橋の刊行当時の状況を現在のものとは扱わない。
『遠野物語』との関係
第17話には、人がいないはずの部屋の物音で座敷ワラシの存在を感じる話がある。姿を見ないまま音を聞き、暮らしの中で受け止める主題で読み比べる。紫波の夜泣き石と遠野の座敷ワラシを同一の存在・信仰とはしていない。 第17話の原文へ →
創作した部分
美緒みおと家族、隣人、アパートの位置と間取り、現代の泣き声、生活と会話、戸口とぐちを訪ねて助けを求める出来事は創作。実際の住民や育児の聞き取りを描いたものではない。作中で聞く声を現存する特定の石の音とは断定していない。現地取材・聞き取りは行っていない。

やさしい再話 / 原作本文とは異なります

『遠野物語』第17話

遠野の旧家には、座敷ワラシという神が住む家があるという。ある家では、休みで帰省していた娘が、廊下で男の子の姿をした座敷ワラシに会って驚いた。

別の家では、母親が縫い物をしていると、主人が留守の部屋で紙の音がした。戸を開けても姿はない。座っていると鼻を鳴らす音も聞こえ、座敷ワラシだと思った。

原作は、この神の住む家は豊かに暮らせるといわれている、と記している。

底本は青空文庫の新字新仮名版。短文化・語句の言い換え・一部省略をした再話初稿です。原作の細部・注記は、原文で確認できます。

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