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創作改稿 / 第2話 / 片寄かたよせ・滝名川たきながわ

帰る日

娘の部屋の写真を、父は最後まで見なかった。

紫波の伝承をもとにしたフィクションです。登場人物・現代の出来事は創作です。

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娘が家を出る朝、父は卵焼きを焦がした。

卵を返そうとしたとき、廊下でスーツケースの車輪が鳴った。火を止めるのが遅れ、端が黒くなった。娘は台所へ入ってくると、切り落とした端を一つ、指でつまんだ。

「熱いぞ」

娘はもう口に入れていた。

父は新しく卵を割った。娘は何か言いかけ、冷蔵庫から麦茶を出した。

弁当を作るのは、娘が高校を出て以来だった。ご飯を詰めてから、蓋が閉まらないことに気づいた。毎朝していたことなのに、量を忘れていた。

片寄かたよせの家を出て、一人で暮らしたい。娘がそう言ったのは春先だった。

娘は町の外に勤め先を決め、部屋の写真を見せてくれた。白い壁と、窓と、小さな流しが写っていた。父は部屋の広さを聞いた。駅から歩いて何分か、夜の道は明るいかも聞いた。

娘は一つずつ答えた。父が家賃を聞くと、写真を閉じた。

「もう契約したのか」

「うん」

「相談くらい、してもよかっただろう」

娘は携帯電話を伏せた。

「部屋を借りたいって言ったよ。先月」

父は覚えていた。そのときも、家賃の話をした。

それから父は、町から通える仕事もあると話した。娘の車を買い替える話もした。どれも間違ってはいないと思った。娘は夕飯のあと、食器を洗うと自分の部屋へ上がった。父は一枚目の写真の、小さな流しを思い出した。娘はそこで何か説明していた。何と言っていたか、覚えていなかった。

大きな荷物は、三日前に宅配便が持っていった。今朝の玄関には、スーツケースが一つあった。

父は弁当のご飯を少し取り出した。娘の好きな卵焼きは、四つに切って入れた。

「お菊の話、覚えてるか」

包みを結びながら聞いた。娘が小さいころ、寝る前によく話してやった。

猟師に殺された大蛇が、その家の娘として生まれる。育てられているうちに、父への恨みを捨てる。片寄のお菊の話だった。

「覚えてる。お父さん、あそこ好きだったね」

「どこ」

「育ててくれたから、もう恨まないってところ」

父は包みの角を揃えた。昔、娘が眠るのは、たいていそのあたりだった。寝息を確かめてから、本を閉じた。

「あのあと、出ていくんだよね」

娘はそう言って、弁当を鞄へ入れた。

父は廊下へ出た。娘の部屋は戸が開いていた。机のあった壁だけ、色が白かった。残していった本の間に、昔読んでやった郷土の話の冊子があった。

片寄のお菊を開いた。猟師はかわいがって育てた娘から正体を告げられ、娘は去っていく。滝名川たきながわへ。

父はその最後まで読んで、冊子を元の場所へ戻した。

洗面所で水の流れる音がしていた。

娘が出てくるのを待って、父は顔を洗った。鏡に、細い帯のような水の跡があった。洗面台から上へ続いている。タオルで拭くと、上の端には手が届かなかった。

「行けるよ」

玄関から娘が言った。父はタオルを掛けた。

駅までの道で、娘の膝には弁当の鞄が載っていた。父は、着く駅の出口をもう一度確かめた。娘が答える前に、乗り換えは携帯電話で分かるかと聞いた。

「分かるよ」

父はうなずいた。次の信号から駅まで、二人とも話さなかった。

改札の手前で、娘はスーツケースの持ち手を伸ばした。

「じゃあね」

父は手を上げた。娘は数歩行ってから振り向き、鞄を少し持ち上げた。父が見ているうちに、人の列へ入った。

帰りにスーパーへ寄った。卵を一パック、籠に入れた。棚へ戻そうとして、結局そのまま買った。

夕方になっても、洗面所の鏡の上の跡が気になった。

脚立を持ってきて、湿らせた雑巾で拭いた。鏡の縁を越えて、水の跡は壁にもついていた。拭きながら目で追うと、天井に達し、窓へ続いている。

窓は肩の高さより上にある。脚立をずらして覗くと、窓は開き、網戸は外して壁に立てかけてあった。外側の窓枠にも、同じ幅の水の跡がついていた。

指で触れると、まだぬれていた。

庭に水をまいた様子はなかった。昼も晴れていた。父は雑巾を持った手を下ろした。

娘に電話をかけようとして、父は手を止めた。何を聞けばよいのだろう。今朝、スーツケースの車輪が廊下を通った。その音も、改札で振り向いた顔も覚えている。

父は脚立を畳んだ。網戸は戻さなかった。

夜、娘から連絡があった。

着いた。荷物も来てた。カーテンの長さ間違えた。

父は画面を見てから、弁当は、と打った。

おいしかった。卵、甘いやつでうれしかった。

父は、いつ帰る、と打った。しばらく見て、消した。

カーテンの寸法を聞こうとした。娘は明日の朝、自分で測るのだろう。父は、洗面所の窓から外へ続いていた水を思い出した。

台所には、焦げた卵焼きの端が一切れ残っていた。父は口に入れた。黒いところは苦かった。娘は何も言わずに、これを食べたのだった。

もう一度画面を開き、そっちは窓から何が見える、と送った。

洗面所の窓を閉めに行くと、外から虫の声が聞こえた。父は窓枠に手をかけた。娘に、この窓を開けたことがあるかと聞こうと思えば、聞けた。

窓は開けたままにした。台所へ戻ると、電話が光っていた。隣の家の屋根。近いよ。娘からの返事だった。父は椅子に座り、もう一度読んだ。

この話の足元

確認した資料
佐藤正雄『ふるさと物語』第74回/広報しわ第180号、1970年7月10日「片寄のお菊」(紫波町公式サイトで確認、2026年11月8日閲覧)。
資料に記録された伝承
片寄の猟師が殺した五郎沼の大蛇が、その家の娘お菊として生まれる話。娘は育てられた情によって恨みを捨て、正体を明かして去る。資料は滝名川への退出を記す。地名と伝承の記録を確認したもので、出来事を史実と認定するものではない。
『遠野物語』との関係
第69話の娘と馬、父の介入、娘が人の暮らしを離れる結末と読み比べる。本作の直接の地域的な土台は『片寄のお菊』であり、『遠野物語』第69話の舞台を移した翻案ではない。 第69話の原文へ →
創作した部分
現代の父娘、就職と独立、引っ越し、弁当、郷土の話の冊子と父娘の読書の記憶、洗面所の跡、会話とメッセージは創作。原伝承の人物の子孫を描くものではない。作中の父の記憶も創作であり、聞き取り証言ではない。

やさしい再話 / 原作本文とは異なります

『遠野物語』第69話

ある家に、父と娘と、一頭の馬がいた。娘は馬を深く愛して、夜も馬小屋で過ごすようになった。

父は二人の仲を知り、娘に知らせず、馬を桑の木につるして殺した。娘は馬の首にすがって泣いた。

父が馬の首を切り落とすと、娘はその首に乗ったまま、空へ昇っていった。

これがオシラサマの始まりだという。馬をつるした桑の枝から、神様の像が作られた。原作は、その像を持つ家々についても記している。

底本は青空文庫の新字新仮名版。短文化・語句の言い換え・一部省略をした再話初稿です。原作の細部・注記は、原文で確認できます。

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