娘が家を出る朝、父は卵焼きを焦がした。
卵を返そうとしたとき、廊下でスーツケースの車輪が鳴った。火を止めるのが遅れ、端が黒くなった。娘は台所へ入ってくると、切り落とした端を一つ、指でつまんだ。
「熱いぞ」
娘はもう口に入れていた。
父は新しく卵を割った。娘は何か言いかけ、冷蔵庫から麦茶を出した。
弁当を作るのは、娘が高校を出て以来だった。ご飯を詰めてから、蓋が閉まらないことに気づいた。毎朝していたことなのに、量を忘れていた。
片寄の家を出て、一人で暮らしたい。娘がそう言ったのは春先だった。
娘は町の外に勤め先を決め、部屋の写真を見せてくれた。白い壁と、窓と、小さな流しが写っていた。父は部屋の広さを聞いた。駅から歩いて何分か、夜の道は明るいかも聞いた。
娘は一つずつ答えた。父が家賃を聞くと、写真を閉じた。
「もう契約したのか」
「うん」
「相談くらい、してもよかっただろう」
娘は携帯電話を伏せた。
「部屋を借りたいって言ったよ。先月」
父は覚えていた。そのときも、家賃の話をした。
それから父は、町から通える仕事もあると話した。娘の車を買い替える話もした。どれも間違ってはいないと思った。娘は夕飯のあと、食器を洗うと自分の部屋へ上がった。父は一枚目の写真の、小さな流しを思い出した。娘はそこで何か説明していた。何と言っていたか、覚えていなかった。
大きな荷物は、三日前に宅配便が持っていった。今朝の玄関には、スーツケースが一つあった。
父は弁当のご飯を少し取り出した。娘の好きな卵焼きは、四つに切って入れた。
「お菊の話、覚えてるか」
包みを結びながら聞いた。娘が小さいころ、寝る前によく話してやった。
猟師に殺された大蛇が、その家の娘として生まれる。育てられているうちに、父への恨みを捨てる。片寄のお菊の話だった。
「覚えてる。お父さん、あそこ好きだったね」
「どこ」
「育ててくれたから、もう恨まないってところ」
父は包みの角を揃えた。昔、娘が眠るのは、たいていそのあたりだった。寝息を確かめてから、本を閉じた。
「あのあと、出ていくんだよね」
娘はそう言って、弁当を鞄へ入れた。
父は廊下へ出た。娘の部屋は戸が開いていた。机のあった壁だけ、色が白かった。残していった本の間に、昔読んでやった郷土の話の冊子があった。
片寄のお菊を開いた。猟師はかわいがって育てた娘から正体を告げられ、娘は去っていく。滝名川へ。
父はその最後まで読んで、冊子を元の場所へ戻した。
洗面所で水の流れる音がしていた。
娘が出てくるのを待って、父は顔を洗った。鏡に、細い帯のような水の跡があった。洗面台から上へ続いている。タオルで拭くと、上の端には手が届かなかった。
「行けるよ」
玄関から娘が言った。父はタオルを掛けた。
駅までの道で、娘の膝には弁当の鞄が載っていた。父は、着く駅の出口をもう一度確かめた。娘が答える前に、乗り換えは携帯電話で分かるかと聞いた。
「分かるよ」
父はうなずいた。次の信号から駅まで、二人とも話さなかった。
改札の手前で、娘はスーツケースの持ち手を伸ばした。
「じゃあね」
父は手を上げた。娘は数歩行ってから振り向き、鞄を少し持ち上げた。父が見ているうちに、人の列へ入った。
帰りにスーパーへ寄った。卵を一パック、籠に入れた。棚へ戻そうとして、結局そのまま買った。
夕方になっても、洗面所の鏡の上の跡が気になった。
脚立を持ってきて、湿らせた雑巾で拭いた。鏡の縁を越えて、水の跡は壁にもついていた。拭きながら目で追うと、天井に達し、窓へ続いている。
窓は肩の高さより上にある。脚立をずらして覗くと、窓は開き、網戸は外して壁に立てかけてあった。外側の窓枠にも、同じ幅の水の跡がついていた。
指で触れると、まだぬれていた。
庭に水をまいた様子はなかった。昼も晴れていた。父は雑巾を持った手を下ろした。
娘に電話をかけようとして、父は手を止めた。何を聞けばよいのだろう。今朝、スーツケースの車輪が廊下を通った。その音も、改札で振り向いた顔も覚えている。
父は脚立を畳んだ。網戸は戻さなかった。
夜、娘から連絡があった。
着いた。荷物も来てた。カーテンの長さ間違えた。
父は画面を見てから、弁当は、と打った。
おいしかった。卵、甘いやつでうれしかった。
父は、いつ帰る、と打った。しばらく見て、消した。
カーテンの寸法を聞こうとした。娘は明日の朝、自分で測るのだろう。父は、洗面所の窓から外へ続いていた水を思い出した。
台所には、焦げた卵焼きの端が一切れ残っていた。父は口に入れた。黒いところは苦かった。娘は何も言わずに、これを食べたのだった。
もう一度画面を開き、そっちは窓から何が見える、と送った。
洗面所の窓を閉めに行くと、外から虫の声が聞こえた。父は窓枠に手をかけた。娘に、この窓を開けたことがあるかと聞こうと思えば、聞けた。
窓は開けたままにした。台所へ戻ると、電話が光っていた。隣の家の屋根。近いよ。娘からの返事だった。父は椅子に座り、もう一度読んだ。