父は夕方になると、台所の窓を開けた。そこからは納屋の屋根しか見えない。それでも窓枠に手をつき、しばらく外を見ている。亮が帰ると、振り向くより先に水のことを聞いた。
「下の田まで入ったか」
「これから見てくる」
父はうなずき、椅子の背につかまりながら座った。腰を悪くしてから、座るにも時間がかかった。
その夏、亮は会社を出ると、アパートへ帰る前に実家へ寄った。夕飯を食べ、父の長靴を借りて田へ行く。靴は少し大きく、坂を下りるとかかとが浮いた。
片寄にある実家の田は、山側から三枚並んでいた。潟沼から来る水を、上の田から順に入れていく。それぞれの田の入口に、木の板を使った小さな水門がある。板を上げれば田に入り、下ろせば、田を通らずに下へ流れる。
父のノートには、田ごとに水を入れる時刻が書いてあった。時刻を直したところは二重線で消してあったが、最後の一行だけは、古い鉛筆の字のままだった。田の名前はなかった。
午後十時。下へ。
「下って、誰の田?」
亮が聞くと、父はノートから目を上げた。
「田はうちで終わりだ。あとは林の中へ落ちてる」
「じゃあ、十時って誰が決めたの」
「親父がそうしてた」
祖父は、亮が小学生のときに死んだ。夏でも長袖を着ていたことと、軽トラックの座席が熱かったことを覚えている。田へついていくと、祖父はときどき林の中へ入っていった。亮は車で待ちながら、クラクションを鳴らしてもいいものか迷った。
「じいちゃんは、何か言ってた?」
「十時になったら返せと。それだけだ」
潟沼には、お駒という水の神様がいる。祖母から聞いた話を、亮は久しぶりに思い出した。沼のどのあたりにいるのか、子どものころ、岸から探したことがあった。
八月に入ると、雨が降らなくなった。
上の田にはまだ水があったが、いちばん下まで来ると、稲の間に土が見えた。水口の近くばかりぬれて、奥へ届かない。
その話を聞いて、翌朝、父は自分で田へ行こうとした。玄関に腰を下ろして長靴を引っ張り、途中で手を止めた。亮が車の鍵を見せると、父は片足だけ履いた長靴を脱いだ。亮は会社へ遅れると連絡し、代わりに見てきた。前の晩とほとんど変わっていなかった。
その日から、夕飯のあいだも父は田のことを聞いた。亮が茶碗を流しへ運ぶと、一粒残っていると言った。いつもなら自分で取りに立つのに、その晩は座ったままだった。
金曜の夜、下の田へ入る水は、靴の先ほどの幅しかなかった。
田植えが済んでから、父は毎日のようにここへ来ていた。亮が休みの日に手伝おうとすると、遠い方の畦の草を刈らせた。稲のそばの仕事は、いつも自分でやった。
懐中電灯の光を田の奥へ動かすと、乾いたところにも稲は立っていた。父がここにいたら、暗くなっても帰らないだろうと思った。
腕時計は九時五十五分だった。亮は水門を開けたまま、道端の車へ戻った。十時半まで待とう。そこまで入れてから、奥の様子をもう一度見る。
窓を閉め、冷房をつけた。父から電話が来るかもしれないと思い、スマートフォンを膝に置いた。
十時を過ぎて間もなく、助手席の足元で、ちゃぷ、と音がした。
窓の外の水音だと思った。ところが、もう一度、同じ場所で鳴った。室内灯をつけると、黒いゴムのマットに水がたまっていた。
指で触れると、冷たくて手を引いた。エンジンを切った。冷房も止まり、カエルの声が近くなった。
ちゃぷ。今度は、水面に小さな波が立つのが見えた。
亮はドアを開けた。足を地面につけてからも、しばらく立ち上がれなかった。膝に載せていたスマートフォンが道路へ落ちた。
スマートフォンを拾い、水門まで歩いた。手元が震えて、懐中電灯の光が木の板から外れる。板を下ろすと、水は田の入口を離れ、林へ続く水路へ回った。
水の先を照らした。少し下ったところで道をくぐり、その先は木の根に隠れて見えなかった。車へ戻るまで、何度も振り返った。室内灯をつけたまま、車を出した。助手席の床は、まだぬれていた。
父は台所で待っていた。「入ったか」
亮はうなずいた。下の田の奥まで届いたかどうかは、確かめていなかった。
翌朝、車のドアを全部開けて、マットを外した。水を捨てると、底に泥が薄く残った。小さな裸足の跡が二つ、きちんと並んでいた。足の指は運転席の方を向き、その二つの跡のほかには、泥はついていなかった。
亮はホースを取りに行き、何度も水をかけた。泥が落ちてからも、しばらく流していた。
夕方、実家へ行くと、父は窓際に座っていた。
亮は、前の晩に見た乾いた土のことを話した。昨夜うなずいたことには、父も触れなかった。車のことを言おうとすると、長靴を片足だけ履いた父の姿が浮かんだ。
父は天気予報が終わるまで黙っていた。
「今夜は、少し長く入れておくか」
亮は箸を止めた。「十時を過ぎても?」
「あのままだと、下はもたん」
父は茶碗を持ったが、飯には手をつけなかった。
「十時って、毎年そうだったの。水が少ない年も」
「そうだな」
「閉めたあと、見に行ったことはないの。下へ」
父は少し考えた。「前は道まで音がした。もう何年も、あそこまで下りてないな」
亮は茶碗の底に残った米を、箸の先で集めた。明日、父を車で田へ連れていこうと思った。あの奥の土を見せるのは、気が重かった。
その晩も、下の田の奥は乾いていた。水門の前に立ち、田と時計を交互に見た。父は今も窓を開けているだろう。今夜こそ、奥まで入ったと言って帰りたかった。
九時五十分だった。
亮は田の畦を歩いた。懐中電灯を向けると、足元の稲に小さな蛾がとまっていた。水口から遠ざかるにつれ、長靴の底につく泥が減った。いちばん奥では、土を踏む音がした。
稲の葉に触れた。葉先が内側へ巻いている。指を離すと、そのままの形に戻った。
水門へ戻っても、板には手をかけなかった。水は途切れずに田へ入っている。この細い流れが土を覆うまで、あとどれくらいかかるのか、亮には分からなかった。
下の水路へ懐中電灯を向けた。昨夜は、水を流したあとで照らしたのだった。今は石の継ぎ目に草が生え、その間に枯れ葉が引っかかっている。光を先へ動かした。田を照らしたときより、ずっと早く闇に突き当たった。
助手席の足跡を思い出した。昨夜、亮がスマートフォンを見ていたあいだ、あの足はこちらを向いていた。
水が来るのを、待っていたのだろうか。
足元へ光を戻した。水門の上手では水の音がしていたが、林へ続く水路は静かだった。亮はそこに立って、十時になるまで聞いていた。
時計を見て、木の板に手をかけた。下ろしかけると、溝に砂が噛んで止まった。板を少し上げ下げすると、砂が流れ出した。両手で、底まで押した。
田へ流れ込む水が細くなり、止まった。亮は閉めた板から手を離した。水口から数歩先まで来ていた水の縁が、そのまま動かなくなった。
道に戻りかけて、立ち止まった。水路は林の入口まで見える。その先を、亮は一度も見たことがなかった。
長靴の履き口を引き上げ、水の流れていく方へ歩いた。
昼間なら何でもない斜面なのに、足を置く場所が見つからなかった。草を踏み、木の幹につかまった。かかとが長靴の中で浮くたび、足を奥へ入れ直した。
木の根の下に、古い石を組んだ水路があった。石の縁に指をかけてしゃがむと、下から土のにおいがした。底にはぬれた葉が重なり、水はまだ見えなかった。
しばらくして、石に水の当たる音がした。一度途切れ、また聞こえた。やがて続けて鳴るようになった。葉が一枚持ち上がり、石の下へ吸い込まれた。懐中電灯の光では、そこまでしか追えなかった。
亮は懐中電灯を消した。
ポケットの中で電話が震えた。父だった。
「奥まで入ったか」
「入らなかった。十時で閉めた」
父は黙っていた。
「明日も、降らんそうだ」
「うん」
亮は石にかけた指を握り直した。
「いま、どこだ」
「下にいる」
電話の向こうで、テレビの音が小さくなった。
亮は父が何か言うのを待った。水は石の下を通って、まだ先へ流れていた。