夜刀神は、『常陸国風土記』(8世紀)行方郡の段に記された蛇神。頭に角を生やした蛇の姿で、行方郡の原野に群れて棲んでいたという。その姿を見た者は一族もろとも滅ぶとされた。ヤト、ヤツは谷あいの低湿地を指す言葉で、名前そのものが棲む場所を表している。
継体天皇の時代、箭括氏の麻多智が谷の葦原を開墾して新田にしようとしたところ、夜刀神が群れを率いてこれを妨害した。麻多智は甲冑を着け、矛を取って蛇たちを打ち殺し、山の登り口まで追い払った。そして堀際に「標の梲」という杖を立て、こう宣言する。ここから上は神の土地と認める。ここから下は人の田である。今後は自分が祭祀者となって永久に祀るから、祟るな、恨むな。
殺した上で、境界を引き、祀る。この順序が重要だと思う。麻多智は夜刀神を単に排除したのではなく、共存の条件を取り決めている。神を征服した者が、同時にその神の祭司になる。
後の孝徳天皇の時代には、壬生連麻呂が同じ谷に池の堤を築こうとして夜刀神と対立した。麻呂は「この工事は人民のためだ、大君の教化に従わぬのは何の神か」と怒鳴り、見えるものは全て打ち殺せと命じた。すると蛇たちは逃げ去ったという。
二つの話の違いが面白い。前者は神と取り引きし、後者は神を一方的に退ける。開拓が進み、人の力が強くなっていく過程が、そのまま記録されているように読める。麻多智の子孫は、風土記が編纂された時代まで祭祀を続けていたと記されている。