なぜ、この時代に新しい仏教が生まれたのか
教科書で「鎌倉新仏教」と呼ばれる宗派です。鎌倉の町で生まれたわけではなく、鎌倉時代に、比叡山などで学んだ僧たちが開いた教えです。その背景には、次の4つが重なっていました。
1末法の世に入ったと信じられていた
仏の教えが衰え、正しく修行しても悟れなくなる「末法」の世に、1052年から入ったと広く信じられていました。法然は、学問や難しい修行だけでは末法の人々は救われないと考え、阿弥陀仏の名を唱える念仏だけに打ち込む教えを説きました。
2戦と災害が続いた
源平の争乱に続き、鎌倉は1257年に大地震に襲われました。『吾妻鏡』は、神社や寺で無事なものは一つもなかったと記しています。飢饉と疫病が続くさなか、日蓮はこの地震をきっかけに『立正安国論』を構想したと、日蓮宗は説明しています。
3比叡山で学んだ僧たちが、一つの教えを選んだ
6つの宗派を開いた法然・親鸞・栄西・道元・日蓮・一遍を、比叡山延暦寺は、いずれも「比叡山が生んだ高僧」として掲げています。彼らは、比叡山で学ぶ多くの教えの中から一つを選び、それだけに打ち込み、誰にでもできる形で説きました。念仏を選んだのが法然・親鸞・一遍、禅を選んだのが栄西・道元、法華経を選んだのが日蓮です。
4武士という新しい担い手が現れた
朝廷と貴族に代わって、武士が政治を動かすようになりました。鎌倉の幕府を率いる北条氏は、新しい教えにも祈りと心の支えを求め、宋の禅僧を招いています。北条時宗に招かれた無学祖元は、モンゴルの元が宋に攻め込んだ後の1279年に、海を渡ってきた僧です。
ただし、当時の主流は古い仏教でした
歴史家の黒田俊雄は、中世の仏教の中心は新しい宗派ではなく、比叡山や奈良の大寺院などの古い仏教だったと唱え、学界に大きな衝撃を与えました。鎌倉でも、幕府の宗教の中心にあったのは、天台宗と真言宗の僧が仕える鶴岡八幡宮寺です。新しい宗派が大きく広がるのは、もっと後の時代のこととされます。
なぜ、その多くが鎌倉を目指したのか
時宗の総本山・遊行寺は、当時の鎌倉について、北条氏の保護で禅宗が盛んになるのを見て、各宗の高僧たちが鎌倉での布教をこころみ、仕事と食料を求める人々も数多く集まっていた、と説明しています。祖師たちと鎌倉との関わりは、次のとおりです。
- 栄西臨済宗鎌倉に寺を開いた
比叡山で学び、2度にわたって宋に渡りました。幕府の帰依を受け、北条政子が開いた寿福寺の開山となっています。
- 道元曹洞宗半年で去った
1247年ごろ、北条時頼らに招かれて鎌倉に下り、半年ほど教えを説いた後、越前(今の福井県)の永平寺に戻りました。
- 法然浄土宗弟子の代に根づいた
京都を中心に念仏を説きました。孫弟子の良忠が、北条経時の開いた光明寺の開山となり、浄土宗が鎌倉に根を下ろします。
- 親鸞浄土真宗鎌倉の外で広めた
法然の弟子です。越後に流された後、関東では常陸国(今の茨城県)を拠点に教えを説きました。このサイトのコースには、浄土真宗の寺は入っていません。
- 日蓮日蓮宗迫害の中で根づいた
比叡山などで学んだ後、鎌倉の松葉ヶ谷を拠点に教えを説き、幕府に『立正安国論』を献じました。迫害を受けながら、弟子や信徒が寺を開いていきます。
- 一遍時宗入れなかった
はじめ天台を学び、太宰府で浄土念仏を習いました。1282年、鎌倉に入ろうとして止められ、片瀬で踊り念仏を行っています。
- 叡尊・忍性律宗(古い仏教の立て直し)鎌倉に寺を開いた
奈良の西大寺で戒律の教えを立て直した叡尊と、その弟子の忍性です。1262年に叡尊が鎌倉に下り、忍性は極楽寺を拠点に人々の救済に力を尽くしました。
一枚で見る、宗派の関係
人と人のつながりを、3つの線に分けて描きました。つながりの記録がない人どうしは、線で結んでいません。
学びの線どこで、誰に学んだか
比叡山(延暦寺)で学んだ祖師
- 法然浄土宗
- 親鸞浄土真宗・法然の弟子
- 良忠光明寺の開山・法然の孫弟子
- 栄西臨済宗
- 道元曹洞宗・栄西の弟子の明全に学ぶ
- 日蓮日蓮宗
- 一遍時宗・はじめ天台を学ぶ
奈良(西大寺)で戒律を立て直した僧
- 叡尊律宗
- 忍性極楽寺の開山・叡尊の弟子
宋から海を渡った禅僧
- 蘭渓道隆建長寺の開山・1246年に来日
- 無学祖元円覚寺の開山・1279年に来日
招きの線北条氏が鎌倉に迎えた僧
北条時頼からは、3本の線が出ています。
対立の線日蓮が受けた迫害と、批判した教え
- 1260松葉ヶ谷の草庵を、念仏を信じる人々に襲われる
- 1261幕府によって伊豆の伊東へ流される
- 1271龍ノ口で処刑されかけ、佐渡へ流される
日蓮が念仏・禅・真言・律を批判した言葉は、のちの人によって「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」の四句にまとめられ、「四箇格言」と呼ばれています。雨乞いをめぐって対立した忍性は、律の僧です。なお、現在の日蓮宗には、この言葉に教化のうえで絶対的な意味を与えない傾向があるとされます。
新しい教えは、鎌倉の境目にあった
鎌倉は三方を山、一方を海に囲まれ、外との出入りは「鎌倉七口」と呼ばれる切通などに限られていました。
実際の地図ではなく、位置関係を分かりやすくした模式図です。白い丸が鎌倉七口、塗りの丸が拠点と出来事の場所です。
極楽寺は、西の極楽寺坂を越えた先にあります。日蓮の草庵があったと伝わる松葉ヶ谷は、東の名越の切通の手前です。一遍が止められたのは北の巨福呂坂、日蓮が処刑されかけた龍ノ口は、さらに西の腰越にあります。
一遍は、幕府の法が及ばない鎌倉の境目の土地をたどって念仏を広め、同じ一帯を、忍性が率いる律宗の集団も拠点にしていたのではないか。そう考える論文もあります(下の出典「一遍の鎌倉遊行について」)。
宗派どうしに、何が起きたか
鎌倉の宗派は、一度にそろったわけではありません。1253年に建長寺が開かれてから、1282年に円覚寺が開かれるまでのおよそ30年のあいだに、日蓮の布教、奈良から来た律宗の僧たち、そして一遍の一行が、相次いで鎌倉にやって来ました。下の出来事は、史料や寺の由緒で確かめられるものだけを年の順に並べ、確かでないものは「〜と伝わる」と書いています。
- 1200
北条政子が栄西を開山に迎え、寿福寺を開いたと伝わります。栄西は、宋で学んだ禅を日本に伝えた僧です。
ゆかりの場所:寿福寺
- 1240
北条経時が、浄土宗の然阿良忠を開山に迎えて佐助ヶ谷に蓮華寺を開き、3年後に材木座へ移して光明寺と改めたと伝わります。
ゆかりの場所:光明寺(宗教でめぐる 06)
- 1252
大仏の造立が始まったと、幕府の記録『吾妻鏡』は記しています。資金は、僧の浄光が人々から集めたと伝わります。
ゆかりの場所:高徳院(宗教でめぐる 10)
- 1253
北条時頼が、宋から来た禅僧の蘭渓道隆を開山に迎え、建長寺を開きました。
ゆかりの場所:建長寺(宗教でめぐる 02)
- 1260
7月、日蓮が『立正安国論』を前執権の北条時頼に献じました。災いが続くのは誤った教えが広まっているからだと説き、法華経を立てるよう求めた書です。8月には、日蓮が住む松葉ヶ谷の草庵が、念仏を信じる人々に襲われました。草庵の跡を伝える寺は、今も複数あります。
ゆかりの場所:安国論寺など(宗教でめぐる 04)
- 1261
5月、日蓮が伊豆の伊東へ流されました。同じ年、律宗の忍性が、北条時頼・重時・実時らの信頼を得て鎌倉に入りました。
- 1262
北条時頼の求めで、奈良の西大寺から叡尊が鎌倉に下りました。忍性の師にあたる僧です。
- 1267
忍性が極楽寺の開山となりました。病人や貧しい人の救済、橋や道の普請に力を尽くしたと伝わります。
ゆかりの場所:極楽寺(宗教でめぐる 08)
- 1271
日照りの夏、忍性が雨乞いの祈りを行いました。日蓮はこの祈りをめぐって勝負と法論を挑みましたが、忍性は相手にしなかったとされます。9月、日蓮は捕らえられて龍ノ口の刑場で斬られる寸前までいき、処刑は取りやめになったと伝わります。そのあと佐渡へ流されました。
ゆかりの場所:龍口寺(宗教でめぐる 05)
- 1282
3月、一遍の一行が巨福呂坂から鎌倉に入ろうとして、警護の武士に止められたと『一遍聖絵』は描いています。一行は片瀬の浜に移り、踊り念仏を行いました。12月、北条時宗が宋から招いた無学祖元を開山に、円覚寺を開きました。蒙古襲来の戦没者を、敵味方の区別なく弔うためと、円覚寺は伝えています。
ゆかりの場所:円覚寺(宗教でめぐる 01)
- 1285
北条時宗の妻・覚山尼が東慶寺を開いたと伝わります。のちに、夫と別れたい女性が駆け込む寺として知られるようになりました。
ゆかりの場所:東慶寺(宗教でめぐる 01)
- 1333
5月22日、北条高時をはじめ一族郎党870余名が、葛西ヶ谷の東勝寺で自害したと伝わります。鎌倉幕府の最期です。
ゆかりの場所:東勝寺跡(エリア別 08)
- 1335
後醍醐天皇が、北条氏の霊を慰めるため、足利尊氏に命じて北条氏の屋敷の跡に宝戒寺を建てさせたと、寺は伝えています。開山は天台宗の円観です。建物が実際に整ったのは、それから20年近く後と考えられています。
ゆかりの場所:宝戒寺(エリア別 08)
- 1394
幕府の滅亡で焼けていた海蔵寺が、上杉氏定によって禅の寺として建て直されました。もとは真言宗の寺だったと伝わります。
ゆかりの場所:海蔵寺(宗教でめぐる 09)
- 1868
明治の神仏分離で、鶴岡八幡宮寺は神社の鶴岡八幡宮となりました。境内の大塔・薬師堂・仁王門などは取り壊され、仏に仕える僧たちの住まい(二十五坊)も、すべて失われました。
取り壊される数年前の大塔(多宝塔)。当時の鶴岡八幡宮は、神と仏をあわせて祀る八幡宮寺でした。フェリーチェ・ベアト撮影、1867〜68年。J・ポール・ゲッティ美術館所蔵(パブリックドメイン)。所蔵館のページで見る ゆかりの場所:鶴岡八幡宮(宗教でめぐる 11)
宗派ごとに見る
臨済宗(禅宗)——執権が招いた宗派
宋から来た禅僧を、北条氏の執権が自ら開基となって迎えた宗派です。寿福寺に始まり、北条時頼の建長寺、北条時宗の円覚寺と、大きな寺が相次いで開かれました。建長寺と円覚寺は、のちに鎌倉五山の第一位と第二位に数えられます。
歩いて訪ねる:建長寺派の明月院・建長寺・円応寺、浄妙寺・報国寺、海蔵寺/円覚寺派の円覚寺・東慶寺・浄智寺
日蓮宗——執権を批判した宗派
日蓮は『立正安国論』で幕府に進言し、ほかの宗派を強く批判しました。そのため、草庵の焼き討ち、伊豆への流罪、龍ノ口の法難と、鎌倉で繰り返し迫害を受けています。大町・材木座には、日蓮ゆかりの伝承を持つ寺が、路地一本ごとに次の寺が現れるほどの密度で並びます。腰越の龍口寺は、龍ノ口の法難の地と伝わる場所に建っています。
歩いて訪ねる:大町・材木座の8ヶ寺、腰越の龍口寺と輪番八ヶ寺
浄土宗——阿弥陀仏の名を唱える宗派
阿弥陀仏の名を唱えれば救われると説く、法然の教えの流れです。北条経時が良忠を迎えた光明寺は、今は浄土宗の大本山で、毎年10月の十夜法要はこの寺で始まったと伝わります。北条氏を滅ぼした新田義貞が建てたと伝わる九品寺、北条政子ゆかりと伝わる安養院も材木座にあります。大仏で知られる高徳院も浄土宗の寺です。江戸時代には、徳川家康の側室だった英勝院が英勝寺を開きました。
歩いて訪ねる:光明寺・九品寺・安養院、英勝寺、高徳院
時宗——鎌倉に入れなかった宗派
念仏を唱えながら踊る「踊り念仏」で知られる、一遍の宗派です。1282年、一遍の一行は鎌倉に入ることを止められ、片瀬の浜で踊り念仏を行いました。鎌倉の中には、のちに時宗の寺が開かれています。
律宗——祈りと救済を一つにした宗派
戒律を重んじる宗派で、奈良の西大寺の叡尊と、その弟子の忍性が鎌倉に広めました。忍性は極楽寺を拠点に、病人や貧しい人の救済、橋や道の普請に力を尽くしたと伝わります。日蓮が書き残したものには、この忍性への批判が繰り返し出てきます。極楽寺は、今は真言律宗の寺です。
歩いて訪ねる:極楽寺・成就院・星井寺
真言宗——北条氏の祈りを支えた宗派
密教の宗派です。北条長時が開いた浄光明寺、北条泰時ゆかりと伝わる成就院、北条義時が建てた薬師堂に始まると伝わる覚園寺など、北条氏とつながりの深い寺があります。鶴岡八幡宮寺にも、真言宗と天台宗の僧が仕えていました。扇ガ谷の海蔵寺は、もとは真言宗の寺でしたが、幕府の滅亡で焼けた後、禅の寺として建て直されています。
天台宗——最も古い寺と、北条氏を弔う寺
比叡山を本山とする宗派です。734年の創建と伝わる鎌倉最古の杉本寺と、滅びた北条氏の霊を弔うために屋敷の跡に建てられた宝戒寺が、天台宗の寺です。
単立——どの宗派にも属さない寺
長谷寺は、江戸時代のはじめに浄土宗となり、第二次世界大戦の後に浄土宗から離れて、どの宗派にも属さない単立の寺になりました。本尊は、日本最大級の木造の十一面観音です。
歩いて訪ねる:長谷寺
鶴岡八幡宮系——神と仏がともにあった社
源頼義が由比若宮を建てたのが始まりと伝わり、1180年に源頼朝が今の地に移しました。明治までは「鶴岡八幡宮寺」と呼ばれる、神と仏をあわせて祀る場所で、仏に仕える僧たちが神主より上の立場で運営していました。明治の神仏分離で仏教の建物が取り壊され、今の姿になっています。学問の神・菅原道真を祀る荏柄天神社と、明治に創建され護良親王を祀る鎌倉宮も、この流れで訪ねられます。
歩いて訪ねる:鶴岡八幡宮・荏柄天神社・鎌倉宮
今も続く祈りの暦
このページの出来事や人を、今も偲ぶ行事です。日に合わせて歩くと、あの時代の続きに立ち会えます。日程や参加の方法は年によって変わることがあるので、訪れる前に各寺社の公式の案内で確かめてください。
- 毎週 土・日
円覚寺の土日坐禅会
無学祖元が開いた円覚寺では、一般の人も参加できる坐禅会が、週末に開かれています。
ゆかりの場所:円覚寺(宗教でめぐる 01)
- 5月22日
宝戒寺の徳崇大権現会
鎌倉幕府が滅びた日に、北条氏の霊を慰める法要が営まれます。
ゆかりの場所:宝戒寺(エリア別 08)
- 9月11日・12日ごろ
龍口寺と常栄寺の龍口法難会
日蓮が龍ノ口で処刑されかけた出来事を偲ぶ法要です。刑場へ向かう日蓮に、桟敷の尼がぼたもちを差し出したと伝わることから、ぼたもちが振る舞われます。
ゆかりの場所:龍口寺(宗教でめぐる 05)
- 9月14日〜16日
鶴岡八幡宮の例大祭
1187年に放生会と流鏑馬が始められたと、『吾妻鏡』は記しています。16日には流鏑馬が奉納されます。
ゆかりの場所:鶴岡八幡宮(宗教でめぐる 11)
- 10月12日〜15日
光明寺のお十夜
1495年に始まったと伝わる念仏の法要です。浄土宗の寺で広く行われる十夜法要は、ここから始まったとされます。
ゆかりの場所:光明寺(宗教でめぐる 06)
現地で宗派を見分ける手がかり
- 「南無妙法蓮華経」の題目
- 石碑や額にこの七文字が刻まれていれば、日蓮宗の寺であることが多い手がかりです。
- 「南無阿弥陀仏」の名号
- 浄土宗や時宗の寺であることが多い手がかりです。
- 一直線に並ぶ伽藍
- 門・仏殿・方丈などが一本の軸の上に並ぶのは、建長寺や円覚寺のような禅宗(臨済宗)の大きな寺に見られる配置です。
- 三つの三角形の紋「三つ鱗」
- 北条氏の家紋です。宝戒寺の門扉や本堂にも見られます。
禅を招いたのも、日蓮を流したのも、北条氏が率いた幕府でした。その北条氏は1333年に滅び、2年後、自分たちの屋敷の跡に建てられた寺で弔われる側になりました。頭がくらくらんぽしませんか。
関係が掴めたら、実際に歩いてみませんか。宗教でめぐるコース一覧へ
確かめてみる
読み終えたら、クイズの鎌倉新仏教編で確かめてみてください。禅宗編・日蓮宗編など、宗派ごとの編もあります。
出典
このページを書くときに確かめた資料です。
- 臨済宗大本山 円覚寺「円覚寺について」
- 臨済宗大本山 円覚寺「比叡山と鎌倉新仏教」
- 臨済宗大本山 円覚寺「鎌倉新仏教の祖師たち」
- 臨済宗大本山 円覚寺「鶴岡八幡宮へ」
- 巨福山 建長寺「歴史」
- 鎌倉大仏殿高徳院「鎌倉大仏と高徳院」
- 宝戒寺「縁起」
- 時宗総本山 遊行寺「一遍上人と藤沢」
- 日蓮宗ポータルサイト「安国論副状」
- 立正大学図書館「日蓮聖人御伝木版画」
- 寂光山 龍口寺「龍口法難会 開催のご案内」
- 鎌倉市観光協会「海蔵寺」
- 鎌倉市観光協会「光明寺」
- 鎌倉市観光協会「鶴岡八幡宮例大祭」
- 「一遍の鎌倉遊行について」(CiNii Research)
- 『国史大辞典』「鎌倉仏教」(ジャパンナレッジ)
- 黒田俊雄『黒田俊雄著作集3 顕密仏教と寺社勢力』(法藏館)
- 「四箇格言」(コトバンク)
- 『新纂浄土宗大辞典』「四箇格言」
- 「蘭渓道隆」(コトバンク)
- 『吾妻鏡』(正嘉元年8月23日条、文治3年8月15日条ほか)
- 『一遍聖絵』(清浄光寺蔵)
- Wikipedia「忍性」「道元」「長谷寺 (鎌倉市)」「宝戒寺」「鶴岡二十五坊」「正嘉地震」



