鎌倉800年は、一つの家族の物語として読むこともできます。権力が誰の手にあったか、大まかに追ってみます。
源氏——すべての始まり
源頼朝みなもとのよりとも鎌倉幕府初代将軍
鎌倉に武家政権を開いた、たった一人の男。鶴岡八幡宮・勝長寿院を建て、杉本寺を再興。この土地の「かたち」を最初に決めた人物です。1199年没、法華堂に葬られたと伝わります。
北条氏(鎌倉)——4代・約150年、北鎌倉の谷筋に代々の寺が並ぶ
政子から高時まで約150年——今の感覚なら、明治のはじめから令和の今日までの隔たりに近い長さです。その間に、寿福寺・常楽寺・明月院・円覚寺・覚園寺と、北鎌倉から金沢街道にかけての谷筋に、代々の寺が少しずつ積み重なっていきました。
北条政子ほうじょうまさこ尼将軍
頼朝の妻。夫の死後、実質的に権力を握った最初の一人。明菴栄西を招いて、寿福寺を開きました。
↓ 子・約20年後
北条泰時ほうじょうやすとき3代執権・武士のための法律を初めて作った男
3代執権。御成敗式目という法律を整えた、実務家タイプ。常楽寺・成就院を建立。
↓ 子孫・約30年後
北条時頼ほうじょうときより5代執権・出家してなお実権を握った男
5代執権。蘭渓道隆を招き、禅を根づかせました。建長寺を建立、最明寺で出家(後の明月院)——権力者自らが俗世を捨てたという、重い話が残る人物です。
↓ 子・約15年後
北条時宗ほうじょうときむね8代執権・二度の元寇を退けた男
8代執権。二度の元寇を退けた、この一族の頂点にいた人物。円覚寺を建立。妻は、東慶寺を開いた覚山尼です。
↓ 子
北条貞時ほうじょうさだとき9代執権・日本初の徳政令を出した男
9代執権。1297年、借金に苦しむ御家人を救うため、所領の売買を取り消す徳政令を出しました——日本で初めての徳政令と伝わります。覚園寺ゆかりの人物。
↓ 子孫・約50年後
北条高時ほうじょうたかとき14代執権・鎌倉幕府を終わらせた男
14代執権。政子から数えて約150年——この一族の最後の代。1333年、新田義貞の攻撃を受け、東勝寺で一族と共に自害。鎌倉幕府、滅亡。
その終わりと、次の主役
新田義貞にったよしさだ鎌倉幕府を滅ぼした武将
北条高時を滅ぼした武将。稲村ヶ崎で剣を海に投じ、潮を退けたという伝説(『太平記』)——この一族の終わりを演出した人物です。ただしこの後、義貞にとっては残酷な展開が待っていました。倒幕最大の功労者でありながら、後醍醐天皇の新政権では思うように取り立てられず、やがてかつて共に鎌倉を攻めた同志・足利尊氏と敵対することになります。
足利氏(貞氏・家時・尊氏ら)室町幕府を開いた一族
鎌倉時代はまだ一御家人。浄妙寺・報国寺にゆかり。目立たなかった一族が、次の時代の主役に変わったのは、偶然ではありません。1333年、鎌倉幕府滅亡の直後に始まった後醍醐天皇の「建武の新政」(天皇中心の政治)は、貴族優先で武士の不満を買います。家格の高さと軍事力を持つ足利尊氏のもとに、不満を持つ武士たちが集まっていったのです。1336年、湊川の戦いで新田義貞を破った尊氏は、征夷大将軍となり室町幕府を開きます——かつて共に鎌倉を攻めた二人が、次の政権を巡って敵同士になった、というのがこの転換の実相です。覚園寺には尊氏の銘が残ります。
北条綱成ほうじょうつなしげ(後北条氏)玉縄城主(戦国期)
戦国期の玉縄城主。同じ「北条」でも、鎌倉北条氏とは血のつながりのない別系統。龍宝寺・大船観音寺にゆかり。
権力の外を歩いた僧たち
日蓮にちれん日蓮宗の開祖
法華経を説き、幕府の宗教政策を批判。二度の法難(松葉ヶ谷・龍口)を受けてなお、教えを曲げなかった人物。妙本寺・安国論寺・龍口寺にゆかり。
忍性にんしょう律宗の僧
律宗の僧。祈ることと助けることが分かれていなかった時代、極楽寺で貧民救済・医療事業を展開。
夢窓疎石むそうそせき七朝帝師
政治から距離を置いた禅僧。瑞泉寺の庭という、権力とは別の仕事で名を残しました。
源氏から北条氏へ、北条氏から足利氏へ——権力は静かに、でも確実に移っていきました。あなたが歩くコースは、どの家の物語でしょうか。頭がくらくらんぽしませんか。
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